+ 1
世界とは、起きていることすべてである。
+ 1.1
世界は事実の全体であり,ものの全体ではない。
  1.11
世界は事実によって、そしてそれらが事実のすべてであることによって、規定されている。
  1.12
なぜならば、事実の全体はなにが起きているかを規定し、そしてまた、なにが起きていないかをも規定するからである。
  1.13
論理空間の中にある事実、それが世界である。
+ 1.2
世界は事実へ分解される。
  1.21
その他すべてを変えずに、ひとつひとつが起きることも、起きないことも、ありうる。
+ 2
起きていること、すなわち事実とは、諸事態の成立である。
+   
+ 2.01
事態とは、対象(ことがら、もの)の組み合わせである。
  2.011
事態の構成要素となりうることが、ものにとって本質的なことである。
+ 2.012
論理においては何ひとつ偶然ではない。もし、あるものがある事態のうちに現れることが可能であるのならば、その事態の可能性は、そのものの中にあらかじめ先決されていなければならない。
  2.0121
かりに、まずそれ自体単独で存在することのできるものがあり、その後に状況がそのものに適合することができるのであれば、それはいわば偶然のように見えるだろう。
ものが事態のうちに現れることができるのであれば、その可能性はもののうちに最初から在るのでなければならない。
(論理的なるものは、たんなる可能性ではありえない。論理はすべての可能性を扱う、そしてあらゆる可能性が論理的事実なのである。)
およそ空間的対象を空間の外では考えることができず、時間的対象を時間の外で考えることもできないように、いかなる対象も他の対象との結合可能性の外では考えることができない
もしある対象をある事態の文脈で考えることができるのであるならば、私には、その文脈の可能性の外にその対象を考えることはできないのである。
  2.0122
あらゆる可能な状況のうちに現れることができるという限り、ものは自立的である。しかし自立性のこの形式は、事態との連関の形式であり、非自立性の形式なのである。(同じ語が、単独あるいは命題の中と二つの異なる仕方で現れることはありえない。)
+ 2.0123
私が対象を知るとき、私はまたそれが事態のうちに現れる可能性すべてを知るのである。
(すべてのそうした可能性は、対象の本性に在るのでなければならない。)
新たな可能性があとから見出されることはありえないのである。
  2.01231
対象を知るためには、その外的性質を知る必要はない。しかしそのすべての内的性質*を知らなければならない。
  2.0124
すべての対象が与えられるならば、同時にすべての可能な事態もまた与えられる。
+ 2.013
いかなるものも、いわば可能な事態の空間のうちにある。私はこの空間が空であると考えることはできるが、この空間を伴わないものを考えることはできない。
  2.0131
空間的対象は無限の空間のうちに在らねばならない。(空間点は入力項の位置である。)
視野内の斑点は必ずしも赤い必要はないが、しかしなんらかの色をもたねばならない。いわばそれは色彩空間に囲まれている。音はなんらかの高さをもち、触覚の対象は、なんらかの硬さをもつ、等々。
+ 2.014
対象は、すべての状況の可能性を含んでいる。
  2.0141
事態のうちに現れる可能性が、対象の形式である。
+ 2.02
対象は単純である。
+
  2.0201
複合的なものについての記述はすべて、その構成要素についての記述と、複合されたものを完全に記述する諸命題とに分解される。
+ 2.021
対象が世界の実体を形づくる。それゆえ対象は合成されたものではありえない。
  2.0211
もし世界が実体をもたないとすれば、命題が意義をもつか否かは、他の命題が真である否かに依存することになる。
  2.0212
そのとき、(真であれ偽であれ)世界の*を描くことはできないだろう。
  2.022
明らかに、たとえどれほど現実と異なって思考された世界であっても、それはあるもの--ある形式--を現実と共有していなければならない。
+ 2.023
この不変の形式は対象によって形づくられる。
  2.0231
世界の実体が規定できるのは、ただ形式だけであり実質的な性質ではない。なぜなら、実質的な性質は命題によってはじめて記述されるのであり、諸対象の配置によってはじめて構成されるのだから。
  2.0232
ついでにいえば、対象は無色である。
+ 2.0233
同じ論理形式*をもつ二つの対象は--それらの外的性質を除けば--それらが別のものであることによってのみ互いに区別される。
  2.02331
あるものが他がもたない性質をもっている場合、その記述によってただちにそれを他のものから区別し、指示することができる。しかし、そうでない場合、すべての性質を共有する複数のものがあることになり、この場合、それら複数から一つを指し示すことはまったく不可能である。
なぜなら、識別する違いが何もないとき、私はそのものを識別できない。識別できるとすれば、それはもともと識別されていたのであろうから。
  2.024
実体は、起きていることとは独立に存在するものである。
+ 2.025
実体は形式と内容からなる。
  2.0251
空間、時間、そして色(なんらかの色をもつ)が対象の形式である。
  2.026
対象が存在するときにのみ、世界に不変の形式が存在しうる。
+ 2.027
不変なもの、存在するもの、そして対象、これらは一つである。
  2.0271
対象は不変なもの、実在するものである。それらの配置が変化するもの、うつろうものである。
  2.0272
対象の配置が事態を形づくる。
+ 2.03
事態のなかで対象は鎖の輪のように互いに繋がっている。
  2.031
事態のなかで対象は特定の仕方で互いに関係してあっている。
  2.032
対象が事態のなかで連関するその仕方が事態の構造である。
  2.033
構造の可能性が形式である。
  2.034
事実の構造は事態の構造から成り立つ。
  2.04
成立している事態の全体が世界である。
  2.05
成立している事態の全体は、いかなる事態が成立していないかと言うことをも規定している。
+ 2.06
事態の成立・非成立が現実である。
(事態が成立していることを肯定的事実、成立していないことを否定的事実とも呼ぶ。)
  2.061
事態は互いに独立である。
  2.062
ある事態の成立・非成立から、他の事態の成立・非成立を推論することはできない。
  2.063
全現実が世界である。
+ 2.1
われわれは自分自身のために事実の像を描く。
  2.11
像は論理空間の中で事実を、すなわち事態の成立・非成立を表わす。
  2.12
像は現実のモデルである。
+ 2.13
像において、諸対象には像の要素が対応する。
  2.131
像の要素は像において対象を代理する。
+ 2.14
像の要素が特定の仕方で互いに関係することにより、像がなりたつ。
  2.141
像はひとつの事実である。
+ 2.15
像の要素が特定の仕方でたがいに関係することは、ものが同じ仕方でたがいに関係していることを表わす。
像の要素のこのような連関を像の構造と呼び、その構造の可能性を像の写像形式と呼ぶ。
+ 2.151
写像形式とは、ものが像の要素と同じ仕方で互いに関係することができる、その可能性である。
  2.1511
像はこのようにして現実に結びついている。像は現実にまで手を伸ばす。
+ 2.1512
像は定規のように現実にあてられる。
  2.15121
両端の目盛りだけが、測られる対象に接触している
  2.1513
それゆえ、この見方によれば、像を像とする写像的関係もまた、像に属するものとなる。
  2.1514
写像的関係は像の要素とものとの対応からなる。
  2.1515
この対応は、いわば像の要素の触覚であり、像はこの触覚で現実に触れる。
+ 2.16
事実は、それが像であるためには*、描かれていること何かを共有しなければならない。
  2.161
およそ、ある事実が他の事実の像であるためには、像と描かれていることにおいて何かが同一でなければならない。
+ 2.17
正しいにせよ誤りにせよ、像が現実を写しとるために現実と共有していなければならないもの、それが写像形式である。
  2.171
像は、像がもつ形式-その形式をもつすべての現実を写しとることができる。
空間的形式をもつ像はすべての空間的現実を写しとることができ、色の形式をもつ像は色に関するすべての現実を写しとることができる、等々。
  2.172
しかし像は自分自身の写像形式を写しとることはできない。像はそれを示す。
  2.173
像はその対象を外側から描写する。(その視点が描写形式である)。それゆえ、像は対象を正しく描写したり、間違って描写したりするのである。
  2.174
しかし像はその描写形式の外に立つことはできない。
+ 2.18
いかなる形式のいかなる像であれ、像が現実を--正しいにせよ誤りにせよ--写しとるために現実と共有していなければならないもの、それが論理形式、すなわち現実の形式である。
  2.181
像の写像形式が論理形式であるとき、その像は論理像と呼ばれる。
  2.182
すべての像は論理像でもある。(それに対し、たとえば、すべての像が空間的な像であるわけではない。)
  2.19
論理像*は世界を写しとることができる。
+ 2.2
像は描かれていることと論理的な写像形式*を共有する。
+
  2.201
像は事態の成立・非成立の可能性を描写することによって現実を写しとる。
  2.202
像は論理空間における可能な状況を描写する。
  2.203
像は、それが描写する状況の可能性を含んでいる。
  2.21
像は現実と一致するかしないかである。すなわち像は正しいか誤りか、真か偽かである。
+ 2.22
像は写像形式によって描写する。そのことは像の真・偽とは関係しない。
  2.221
像が描写すること、それが像の意義である。
  2.222
像の意義と現実との一致・不一致、それが像の真・偽を定める。
  2.223
像の真・偽を知るためには、像と現実とを比較しなければならない。
  2.224
像だけからは、その真・偽を判断できない。
  2.225
ア・プリオリに真である像は存在しない。
+ 3
事実の論理像*が思考である。
+   
+
  3.001
「ある事態が思考可能である」とは、その事態の像を描くことができるということを意味する。
  3.01
真である思考の全体が、世界の像である。
  3.02
思考は、考えている状況が可能であることを含んでいる。考えられることはまた可能なことでもある。
+ 3.03
非論理的なことを考えることはできない。さもなければ、非論理的に思考しなければならなくなるだろう。
  3.031
神はすべてを創造しうる。ただ論理法則に反することを除いては、とかって言われていた。--実際、「非論理的」世界がどのようであるかなど、語りえないのである。
+ 3.032
「論理に反する」ことは言語で描写できない。それは、幾何学において、空間の法則に反する図形を座標で描写したり、存在しない点の座標を示すことができないのと同様である。
  3.0321
たしかに、物理法則に反した事態を空間的に描写することはできるだろう。しかし、幾何法則に反した事態は空間的には描写できない。
  3.04
ア・プリオリに正しい思考とは、思考の可能性がその真を保証する、そのような思考であるだろう。
  3.05
思考そのものから(比較の対象無しに)真であることがわかる、そのような思考にかぎり、ア・プリオリに真であることを知りうるであろう。
+ 3.1
思考は命題において、感性的に知覚可能な表現となる。
  3.11
われわれは、可能な状況の投影として、命題を表す知覚可能な記号(音声記号、文字記号、等々)を用いる。
投影の方法は、命題--意義を考えることである。
  3.12
われわれが思考を表現するために用いる記号を、私は命題記号とよぶ。すなわち、命題とは、世界に対し投影的に関係している命題記号である。
  3.13
投影に属するすべては、命題に属する。しかし、投影されていることは命題に属さない。
すなわち、命題に属するのは、投影されていることの可能性であり、投影されていることそれ自身ではない。
それゆえ、命題にはその意義までは含まれていない。しかしそれを表現する可能性は含まれている。
(「命題の内容」とは、有意義な命題の内容である。)
命題に含まれるのは意義の形式であり、内容ではない。
+ 3.14
命題記号は、その要素、すなわち語が特定の仕方でたがいに関係するところになりたつ。
命題記号はひとつの事実である。
  3.141
命題は語の寄せ集めではない。--(音楽の主題が音の寄せ集めではないように。)
命題は語に分節化されている。
  3.142
ただ事実だけが意義を表現することができる、名の集まりでは表現できない。
+ 3.143
命題記号がひとつの事実であることは、手書き文字や活字という通常の表現形態によって見えにくくなっている。
たとえば印刷された命題では、命題記号は語と本質的な区別があるようには見えない。
(それゆえ、フレーゲは命題を合成された名と呼ぶことができたのである。)
  3.1431
命題記号が文字ではなく、(机、椅子、本といった)空間的な対象から構成されると考えてみれば、命題記号の本質がきわめてはっきりするだろう。
そこでは、これらのもの相互の空間的配置が命題の意義を表現する。
  3.1432
『複合記号「aRb」は、ab に対して関係 R にあることを語っている。』のではなく、「a」が「b」に対してなんらかの関係にあるということが、 aRb ということを語っているのである。
  3.144
状況は記述することができるが、名指しすることはできない。
(名は点に似ている。命題は矢に似ている、ともに意義・方向をもつ。)
+ 3.2
思考の対象に命題記号*の要素が対応する。そのような仕方で、思考は命題のうちに表現される。
+
  3.201
この要素を私は「単純記号」と呼び、そしてこの命題は「完全に分析された」と言う。
  3.202
命題の中で用いられた単純記号は名と呼ばれる。
  3.203
名は対象を意味する。対象が名の意味である。(「A」は「A」と同じ記号である)
  3.21
命題記号における単純記号*の配置に、状況における対象の配置が対応する。
+ 3.22
*は命題のなかで対象を代理する。
  3.221
対象はただ名づけることができるだけである。そして記号は対象を代理する。私は対象について語ることはできるが、対象そのものを語ることはできない。命題はただものがいかにあるかを語ることができるだけであり、それが何であるかを語ることはできない。
  3.23
単純記号が可能でなければならないという要請は、命題の意義が確定しなければならないという要請である。
  3.24
複合的なものをあつかう命題は、その構成部分をあつかう命題と内的な関係にある。
複合的なものは、その記述によってのみ与えられうる。そしてその記述は正しいか正しくないかのいずれかである。複合的なものに言及する命題は、その複合的なものが存在しない場合、ナンセンスではなく、ただたんに偽となる。
命題のある要素が複合的なものを表示していることは、その要素を含む命題の不確定性から見て取れる。われわれはこの命題では、まだすべてが確定しているわけではないことを知る。(一般性の表記はプロトタイプを含んでいる。)
複合的なものを表すシンボル*の組み合わせを一つの単純なシンボルに要約することが、定義によって可能である。
+ 3.25
命題の完全な分析が、一つそして唯一つ存在する。
  3.251
命題は、その表現していることを、確定した、明確に指定しうる仕方で表現する。すなわち、命題は分節化されている。
+ 3.26
どのような定義によっても、名はそれ以上分解することができない。名は原始記号である。
  3.261
定義された記号はすべて、その定義に用いられた記号を経由して表示する。定義はそうして道を示す。
原始記号および原始記号によって定義された記号、この二種の記号が同じ仕方でものを表示することはできない。名を定義によって他の記号に分解することはできない。(それだけで独立に意味をもつ記号を、定義によって他の記号に分解することはできない。)
  3.262
記号で表現されていないことが、記号の使用によって示される。その記号が隠しているものを、記号の使用が現す。
  3.263
原始記号の意味は解明によって明らかにすることができる。解明とはその原始記号を使用している諸命題である。それゆえそれら原始記号の意味が既に知られている時にのみ、解明を理解することができる。
+ 3.3
命題だけが意義をもつ。命題の文脈においてのみ、*は意味をもつ。
+ 3.31
命題の意義を特徴づけているその構成要素すべてを、私は表現(シンボル)と呼ぶ。
(命題自身が一つの表現である)
命題の意義にとって本質的で、命題が互いに共有できるもの、そういうものすべてが表現である。
表現は命題の形式と内容を特徴づける。
  3.311
表現は、その表現が現れることのできるすべての命題の形式を前提とする。表現は、それを含む命題の集合を特徴づける共通の目印である。
  3.312
したがって表現は、それが特徴づける諸命題の一般形式によって表される。
この一般形式において、その表現は定項となり、他のすべては可変項となる。
  3.313
それゆえ、表現は可変項を用いて表される。その値はその表現を含む命題である。
(極端な場合、命題全体が表現となり、そのとき可変項は定項になる。)
命題を値とするこのような可変項を、私は「命題可変項」と呼ぶ。
  3.314
表現は命題の中でのみ意味をもつ。すべての可変項は命題可変項として解釈できる。
(名の可変項も同様。)
  3.315
ある命題の一つの構成要素を可変項に変えると、可変的命題になり、その可変的命題の値となる命題全体の集合が生じる。この集合は、一般的には、われわれが命題の構成部分にどういう意味を与えるかという恣意的取り決めにまだ依存している。しかし、意味が恣意的に決められるそうした記号をすべて可変項にしてしまっても、それでも依然としてその値となる命題の集合が一つ存在する。もはやその集合はいかなる取り決めにも依存せず、ただ命題の本性のみに依存している。この命題の集合は、論理形式--論理的プロトタイプ--に対応する。
  3.316
命題可変項がいかなる値を取りうるかは規定されている。
この値の規定が、すなわちその可変項である
  3.317
命題可変項の値を規定することは、この可変項を共通の目印とする命題を列挙することである。
値を規定するとは、それらの命題を記述することである。
それゆえに、値を規定することはただシンボルにのみ関わり、その意味には関わらない。
値の規定がシンボルの記述にすぎず、そのシンボルが何を表示しているかには関わらないということ、値の規定にとって本質的なのはこのことだけである。
われわれがその命題をどう記述するかは本質的ではない。
  3.318
私は--フレーゲやラッセルと同様--命題をそれに含まれている諸表現の関数であると捉える。
+ 3.32
記号はシンボルの知覚可能な側面である。
  3.321
それゆえ二つの異なるシンボルが同じ記号(文字、音声、等々)を共有することがありうる。そのときそれら二つの異なるシンボルは、同じ記号だが、異なった仕方で表示する。
  3.322
二つの対象を同じ記号で表示したからといって、その記号化作用の仕方が異なる以上、それをもって二つの対象に共通の特徴を示したことにはならない。なぜならば、記号は恣意的だからである。それゆえ、二つの異なる対象に対して二つの異なる記号を選ぶことも可能である。そうしたとき、表示における共通の見かけの何が残るだろうか。
  3.323
日常言語では、同じ語が異なった仕方で表示する--つまり同じ語が異なったシンボルに属する--ことがきわめて多い。あるいはまた、異なった仕方で表示する二つの語が外見上は同じ仕方で命題中に用いられることもある。
たとえば ’ist’「・・である、・・がある」という語は、繋辞として、等号として、あるいは存在の表示として、用いられる。「存在する」は「行く」のような自動詞として、「同じ」は形容詞として扱われる。’etwas’「何ものか、何ごとか」という語で、われわれは何かある対象についても語り、また何かあるできごとが起きると語ったりもする。
(「緑は緑である」という命題--初めの語は人名であり、あとの語は形容詞である--において、これらの言葉はたんに意味が違うだけでなく、それぞれが異なったシンボルなのである。)
  3.324
こうして、もっとも基本的な混同が容易に発生する。(哲学全体がこうした混同に満ちている。)
  3.325
こうした誤りを避けるために、異なるシンボルに同じ記号が使用されたり、表示の仕方の異なる記号が同じ仕方で使用されることのない、誤りを排した記号言語、すなわち、論理的文法--論理的構文論--による記号言語を用いなければならない。
(フレーゲとラッセルの概念記法はそのような言語である。しかしそれはまだ全ての誤りを排除できてはいない。)
  3.326
シンボルをその記号において認識するには、記号の有意義な使用に目をむけなければならない。
  3.327
論理的構文論にそった使用によってはじめて、記号の論理形式が定まる。
  3.328
使用されない記号は意味をもたない。これがオッカムの格言の意味である。
(もし、ある記号がすべての状況で意味をもつかのように見えるならば、その記号は意味をもっている。)
+ 3.33
論理的構文論において記号の意味はいかなる役割もはたしてはならない。論理的構文論は、記号の意味を問うことなしに築かれねばならない。それは、ただ表現を記述することのみを前提としなければならない。
  3.331
この観点からラッセルの「タイプ理論」を見渡してみる。ラッセルの誤りは、記号の規則を立てるのに記号の意味を論じなければならなかったことに示されている。
  3.332
いかなる命題も自分自身について語ることはできない。なぜなら、ある命題記号が当の命題記号自身のうちに含まれることはないからである。(これが「タイプ理論」のすべてである。)
  3.333
関数を自分自身の入力項とすることはできない。なぜなら、関数記号はすでに入力項のプロトタイプを含んでおり、そしてそのプロトタイプは自分自身を含むことができないからである。
例えば、関数 F(fx) が自分自身の入力項になりえると仮定してみよう。そのとき、「F(F(fx))」という命題が存在することになる。ところがこの命題において外側の関数 F と内側の関数 F は異なる意味をもっているのでなければならない。なぜならば、内側は φ(fx) という形式であるのに対し、外側は ψ(φ(fx)) となるからである。二つの関数に共通なものは文字「F」にすぎない。だが文字それ自身は何も表さない。
このことは、「F(Fu)」 の代わりに「(φ) : F(φu) . φu = Fu 」 と書くと、ただちに明らかになる。
かくして、ラッセルのパラドックスは消え去る。
  3.334
論理的構文論の規則は、個々の記号が表示する仕方を知りさえすれば、おのずから理解されるのでなければならない。
+ 3.34
命題は本質的な側面と偶発的な側面をもつ。
命題記号を生成する特定の方法に依存する側面は、偶発的である。それなしには、命題がその意義を表現できない側面は、本質的である。
+ 3.341
それゆえ命題における本質的なものは、同じ意義を表現することのできるすべての命題が共有する。
同様に、シンボルにおいて本質的なものは、同じ目的を果たすことのできるすべてのシンボルが共有する。
  3.3411
それゆえ本来の名とは、同じ対象を表示するシンボルすべてに共通するものである、と言うこともできるだろう。こうして、いかなる合成も名にとって本質的でないことが、順々に示されるだろう。
+ 3.342
われわれの表記法にはたしかに恣意的なところがある。しかし、恣意的であれ、あることを決めたならば、他のことがらはそれに応じて定まらねばならない。このことは、けっして恣意的ではない。(これは表記法の本質によっている)
  3.3421
特定の表示方法は重要でないとしても、その表示方法が可能であること、それは常に重要である。とくに哲学において重要である。個別例は重要ではないとたびたび指摘されるが、しかし、そうした個々の事例の可能性は、世界の本質のなんらかを開示するのである。
  3.343
定義とは、ある言語から他の言語への翻訳規則である。すべての正しい記号言語は、そのような規則によって任意の他の言語へ翻訳可能でなければならない。これが、すべての正しい記号言語が共有するものである。
+ 3.344
シンボルにおいて表示するもの、それは、論理的構文論の規則によって、それと置換可能なすべてのシンボルが共有するものである。
  3.3441
たとえば、真理関数*の表記すべてに共通なものは、次のように言い表せる。--どの真理関数の表記も、たとえば、「~p」(「p ではない」)と「p q」(「p または q」)という表記を用いて書き換えることができる。それはすべての真理関数の表記に共通である。
(このように、特殊な表記であってもそれが可能であるということが、一般的な何ごとかを開示しうるのであり、この例はその方法を示している。)
  3.3442
複合的なものに対する記号を分析し、解決する仕方も恣意的ではない。すなわち、その記号の現れる命題構造が異なるごとに解決が異なるわけではない。
+ 3.4
命題は論理空間に一つの領域を定める。この論理的領域の存在は、ひとえにその構成要素の存在によって、すなわち有意義な命題の存在によって、保証されている。
+ 3.41
命題記号と論理的座標、これが論理的領域を形づくる。
  3.411
幾何学的領域と論理的領域は、どちらも存在の可能性であるという点で一致している。
  3.42
一つの命題は論理空間に一つの領域しか定めないが、にもかかわらず、この一つの領域によって論理空間全体がすでに与えられていなければならない。
(さもなければ、否定や論理和、論理関などによって、つねに新たな要素が--論理的座標の中に--導入されなければならないことになる。)
(像をとりまく論理的足場が論理空間を定める。命題は論理空間全体へ手を伸ばす。)
  3.5
適用された、思考された、命題記号が思考である。
+ 4
思考とは有意義な命題である。
+   
+
  4.001
命題の全体が言語である。
  4.002
ひとは、それぞれの語が何をどのように意味しているのか気づいていなくても、あらゆる意義を表現しうることばを構成する能力をもっている。--ちょうど、それぞれの音がどのように発せられるかを知らなくても喋ることができるように。
日常言語は、ひとという有機体の一部であり、それに劣らず複雑である。
日常言語から言語の論理を直接取り出すことは不可能である。
思考は言語で仮装する。すなわち、衣装の外形から内にある思考の形を推測することはできない。なぜなら、衣装の外形は、体の形を示す目的とはまったく違った目的でデザインされているのだから。
日常言語を理解するための暗黙の取り決めは途方もなく複雑である。
+ 4.003
哲学的なことがらについて書かれたほとんどの命題や問いは、誤っているのではなくナンセンスなのである。それゆえ、この種の問いに答えることは不可能であり、われわれはただそれがナンセンスであると確かめることしかできない。哲学者たちの問いと命題のほとんどは、言語の論理を理解していないことから発生している。
(それらは、「善は美よりもより多く同一的であるのか、それとも、より少なく同一であるのか」といった問いと同類である。)
こうしてもっとも深遠な問題が実はまったく問題ではなかったとしても驚くべきことではない。
  4.0031
すべての哲学は「言語批判」である。(もちろんマウトナーの言う意味ではないが。)ラッセルの功績は、命題の見せかけ上の論理形式が必ずしもその実際の論理形式である必要はないことを示した点にある。)
+ 4.01
命題は現実の像である。
命題は、われわれが思い描く現実のモデルである。
  4.011
一見したところ命題は--たとえば紙に印刷されている場合--、それが扱っている現実の像のようには見えない。しかし、楽譜もまた見たところ音楽の像のようには見えず、われわれの表音文字(アルファベット)も会話の像になっているようには思われないのである。
それでもこれら記号言語は、それが表すことに対して、普通の意味でも像となっていることが分かる。
  4.012
明らかにわれわれは「aRb」という形式の命題を像として受け止めている。ここにおいて記号は明らかにそれが表示するものの似姿である。
  4.013
そして像であることの本質へ踏み込むならば、そのとき、記号の外見上の不規則さ(楽譜における♯や♭の使用のような)は、像であることを妨げないことが見てとれるだろう。
なぜなら、これら不規則なものもまた、単に異なる仕方で、その表現しようとするものを写像しているのだから。
+ 4.014
レコード盤、音楽的思考、楽譜、音波、これらはすべて互いに、言語と世界の間に成立している関係と同様に内的な写像関係にある。
それらすべての論理的構造は共通である。
(童話の二人の若者、その二頭の馬、そして彼らの百合のように。それらはある意味ではすべて一つなのである。)
  4.0141
ある一般的な規則が存在し、それによって音楽家は総譜から交響曲を読みとることが可能となり、さらにそれによってレコード盤の溝から交響曲を引き出すことが可能となる、そのような規則が存在する。そして、最初の規則によって、交響曲から再び総譜を導き出すことができる。まさにこの点に、一見まったく相異なる形象の内的な類似性が横たわっている。そしてその規則とは、交響曲を音符言語に投影する投影法則であり、それは音符言語をレコード盤の言語に翻訳する翻訳規則である。
  4.015
あらゆる似姿の成立可能性は、すなわちわれわれの表現法のあらゆる像の成立可能性は、写像の論理によっている。
  4.016
命題の本質を理解するために、象形文字を考えるべきである、それは記述する事実を写像している。
そして象形文字がアルファベットになったときにも、その写像の本質は失われてはいないのである。
+ 4.02
われわれは、命題記号を説明されなくても、その意義を理解することができる。このことから、命題記号が象形文字と本質的に同じであることが分かる。
  4.021
命題は現実の像である。なぜならば、命題を理解すれば、その命題が描写している状況を知るのだから。そして命題を理解するのに、その意義の説明を必要としないのだから。
  4.022
命題はその意義を示す
命題は、それが真ならば、事実がどのようであるかを示す。そして事実がそうであると語る
  4.023
命題は、あとはイエスかノーかというところまで、現実を限定しなければならない。
そのためには、現実は命題によって完全に記述されねばならない。
命題とは事態の記述である。
対象の記述がその対象の外的性質によって記述されるように、命題は現実がもつ内的性質によって現実を記述する。
命題は、論理的足場を頼りに世界を構築する。それゆえ、その命題が真であるならば、そこから論理的に何が言えるのかすべて見てとることができる。また、偽な命題からも、推論を引き出すことができる。
  4.024
命題を理解するとは、それが真であるとすれば起きることはなにかを知ることである。
(それゆえ、実際に真かどうかを知らなくとも、命題を理解することができる。)
その構成要素が理解されれば、命題は理解される。
  4.025
ある言語から他の言語への翻訳は、一方の各命題から他方の命題へ翻訳されるのではなく、ただ命題の構成要素だけが翻訳される。
(そして辞書は名詞だけでなく、動詞、形容詞、接続詞等々の翻訳も行い、しかもそれらすべてを同等に扱う。)
  4.026
単純記号(語)の意味を理解するには説明してもらわねばならない。
しかし、命題によって、われわれは互いに了解しあう。
  4.027
命題は新しい意義を伝えることができる。これは命題の本質に属している。
+ 4.03
命題は古い表現で新しい意義を伝えなければならない。
命題はある状況を伝える。それゆえ、命題はその状況と本質的に連関していなければならない。
そしてその連関とは、命題が状況の論理像であること、そのことである。
命題は、ただ像であるかぎりにおいてのみ、何ごとかを語る。
+ 4.031
命題において状況はいわば実験的に構成される。
「この命題はしかじかの意義をもつ」と言う代わりに、単に「この命題はしかじかの状況を描写する」と言うことができる。
  4.0311
ある名はあるものを表し、他の名は他のものを表す、そしてそれらの名が互いに結合されている。そしてその全体が--活人画のように--事態を表現する。
  4.0312
命題の可能性は記号が対象の代理をするという原理に基づいている。
しかし「論理定項」はなにかの代理ではない。すなわち事実の論理はなにかに代理されることはない。これが私の基本的考えである。
  4.032
命題は論理的に分節化されているかぎり、状況の像である。
(’Ambulo'「私は歩く」という命題も、やはり合成されたものである。なぜなら、その語幹に異なる語尾をつけても、その語尾に異なる語幹をつけても、意義が変わるのだから。)
+ 4.04
命題は、それが描写している状況が区別されているのと正確に同じだけの部分に区別されねばならない。
命題と状況は、同じだけの論理的(数学的)多様性を持たねばならない。(力学上のモデルに関する、ヘルツの「力学」参照。)
+ 4.041
言うまでもなく、この数学的多様性それ自身を再び写像することはできない。写像しようとして、その外に出ることはできない。
  4.0411
われわれが「(x) . fx」と表しているものを、仮に「fx」の前に(一般性を示す)目印をつけて、たとえば「Alg.fx」と表したとしよう。これでは十分ではない。--これでは、なにが一般化されているのか分からない。そこで x に一般性の目印 「a」 を添えて「f(xa)」のように表したとする。これもやはり十分ではない。--これでは一般性を示す範囲が分からない。
各項の位置に一般性を表す符合「A」を導入し、たとえば「(A, A) . F(A, A)」のようにしてみたらどうか。十分ではない。--これらいくつかの可変項の同一性を確定できなくなる。等々。
これらが不十分なのは、必要な数学的多様性に欠けているからである。
  4.0412
ひとは空間的関係を、言わば「空間めがね」越しに見るという、観念論の説明も、同じ理由で十分なものでない。なぜならば、この説明では空間的関係がもつ多様性を説明できないからである。
  4.05
現実は命題と比較される。
+ 4.06
命題は現実の像であることによってのみ、真か偽でありえる。
  4.061
命題の意義は、それが事実であるかには依存しないということを見落とすべきではない。さもないと、ひとは容易に、真と偽も記号とそれが表示するものとの関係と同等の関係であると信じるようになる。
そのとき、例えば、「~p」が偽なる仕方で表示することを、「p」は真なる仕方で表示するなどと言い出しかねない。等々。
+ 4.062
これまで真な命題で了解してきた。それでは、同じ仕方で、偽な命題では了解できないのだろうか。それらが偽な命題として知られてさえいればよいのか。否。なぜなら、命題が真であるのは、事実がその命題の語るとおりであるときだからである。仮にわれわれが「p」で ~p のことを考えていたとしよう。しかも、事実が考えられていたとおりであったとする。そのとき、この新たな概念のもとで、「p」は真であり、偽とはならないのである。
  4.0621
しかし記号「p」と「~p」が同じことを語りうるということは重要である。というのも、それは記号「~」が現実の何ものにも対応しないことを示しているのだから。
ある命題に否定が現れるということだけでは、その命題の意義を特色づけることにはならない(たとえば、 ~~p = p)。
命題「p」と「~p」意義は反対である、しかしそれらには同じ一つの現実が対応する。
  4.063
真理という概念を説明するための一つの比喩。--白い紙の上の黒い模様。この平面上の各点に対してそこが白いか黒いかを述べていけば、模様の形を記述することができる。ある点が黒いという事実には肯定的事実が対応し、ある点が白い(黒くない)という事実には否定的事実が対応する。もし私が平面上の一つの点(これがフレーゲの言う真理値に対応する)を指しているならば、それは判断の必要な仮定に対応する、云々。
しかし一つの点が黒いとか白いとかを語るためには、いかなる場合にある点を黒あるいは白というのか、私はあらかじめ知っていなければならない。「 p 」は真である(あるいは偽である)と語るためには、どのような状態で「 p 」を真とするのかを確定していなければならない。そしてそれによって私は命題の意義を確定するのである。
ここにおいて比喩は崩れる。--われわれは、白とは何か黒とは何かを知らなくとも、紙の上の点を指示することができる。しかし命題は、意義を介さずには何ものにも対応しない。命題は「真」とか「偽」と呼ばれるなんらかの性質をもったあるもの(真理値)を指示するわけではないからである。フレーゲは、命題に対して「真である」や「偽である」という動詞が与えられる、と考えていたが、そうではなく、その命題が真であるということに、既に「真である」という動詞が含まれているのでなくてはならない。
+ 4.064
すべての命題はあらかじめ意義をもっていなければならない。命題を肯定することによってそれに意義が与えられるのではない。肯定とはまさにその意義を肯定することであるのだから。否定等についても同様である。
  4.0641
否定は、否定される命題の論理的領域にすでに関わっている、と言うこともできよう。
否定命題は否定される命題とは別の論理領域を規定する。
否定命題は、否定される命題の論理領域の助けを借りて、その外側にあると語ることによって、自らの論理的領域を規定する。
否定命題を再度否定することができる。このことは、否定されるていることはすでに命題であり、けっして命題以前の単なる準備段階のようなものではないことを示している。
+ 4.1
命題は、事態の成立・非成立を述べる。
+ 4.11
真なる命題の全体が全自然科学(あるいは自然科学の全体)である。
  4.111
哲学は自然科学ではない。
(「哲学」という語は、自然科学に並んであるのではなく、自然科学の上に、あるいは下にあるものを意味するのでなければならない。)
+ 4.112
哲学の目的は思考の論理的明晰化である。
哲学は学説ではなく、活動である。
哲学の著作は本質的に解明から成り立つ。
哲学の成果は「哲学的命題」ではない。諸命題が明晰になるということである。
思考は、そのままではいわば不透明でぼやけている。哲学はそれを明晰にし、くっきりとした限界を与えねばならない。
  4.1121
心理学が、他の自然科学に比べて、より哲学に近いわけではない。
認識論は心理学の哲学である。
記号言語に関する私の研究は、哲学者たちが論理の哲学にとってきわめて本質的とみなしていた思考過程の研究に相当するのではないだろうか。しかし、ほとんどの場合彼らは非本質的な心理学研究に絡め取られてしまったにすぎない。そして、私の方法にも同様の危険が存在する。
  4.1122
ダーウィンの理論が、他の自然科学の仮説よりもより一層哲学と関係深いわけではない。
  4.113
哲学は自然科学の論議可能な領域に限界を与える。
  4.114
哲学は思考可能なことを境界づけ、それによって思考不可能なことを境界づけなければならない。
哲学は思考可能なことを介して、内側から思考不可能なことを限界づけなければならない。
  4.115
哲学は、語りうることを明晰に表すことによって、語りえぬことを指し示そうとする
  4.116
およそ考えられることはすべて明晰に考えられる。言い表せることはすべて明晰に言い表せる。
+ 4.12
命題は現実のすべてを描写できる。だが、命題は、現実を描写するために命題が現実と共有しなければならないもの--論理形式--を描写することはできない。
論理形式を描写することができるためには、われわれはその命題とともに論理の外側、すなわち世界の外側に立つことができなければならない。
+ 4.121
命題は論理形式を描写できない。論理形式は命題に映しだされている。
言語のうちに映し出されいるものを、言語は描写できない。
言語のうちにみずからを表現しているものを、われわれは言語によって表現することができない。
命題は現実の論理形式を示す
命題はそれを提示する。
  4.1211
たとえば、命題「fa」は、その意義の中に対象 a が現れることを示している。二つの命題「fa」と「ga」は、それらがともに同一の対象についての命題であることを示している。
二つの命題が互いに矛盾であるとき、そのことはそれらの構造によって示されている。ある命題が他の命題から帰結するとき等々もまた、同様である。
  4.1212
示されうることは、語られえない
  4.1213
われわれの記号言語においてすべてがうまく行きさえすれば、そのとき論理を正しく把握できているという印象--この印象もいまや理解できるのである。
+ 4.122
ある意味でわれわれは、対象や事態の形式的性質について、又事実の構造の性質について論じることができる。また同じ意味で、形式的関係や構造の関係について論じることもできる。
(構造の性質と言う代わりに、私はまた「内的性質」とも言う。そして構造の関係の代わりに「内的関係」と。
私がこうした表現を持ち込むのは、なぜかくも多くの哲学者たちが内的性質と狭義の(外的)性質を混同するのか、その理由を明らかにしたいからである。)
しかし、こうした内的性質や内的関係の成立は、命題によってでは主張できない。それはその事態を描写し、その対象を扱う命題のうちに、おのずから示される。
  4.1221
事実の内的性質を、われわれはまた事実の相貌と呼ぶことができよう。(たとえば、人相について語るときのような意味で。)
  4.123
ある性質は、その対象がそれをもたないとは考えられないとき、内的性質である。
(この青色とあの青色は、おのずから、より明るい/より暗いという内的関係にある。これら二つの対象がその関係にないとは考えられない。)
(ここで「性質」や「関係」という語の用法の揺らぎに、「対象」という語の用法の揺らぎが対応している。)
+ 4.124
ある内的性質が可能的状況のうちに成り立っていることは、命題で表現されることではなく、その状況を描写する命題において、その命題の内的性質を介して、みずからを表現する。
ある命題にある形式的性質が存在すると主張することは、その否定と同様にナンセンスである。
  4.1241
この形式にはこの性質があるが、あの形式にはあの性質があると語ることによって、諸形式を互いに区別することはできない。というのは、それぞれの性質をそれぞれの形式に帰することに意味があると前提しているから。
+ 4.125
いくつかの可能な状況の間にある内的関係が成り立っていることは、その状況を描写する諸命題間の内的関係を介して、言語のうちにみずからを表現する。
  4.1251
このようにして、「すべての関係は内的なのか外的なのか」という論争は解決する。
  4.1252
内的関係によって順序づけられた列を、私は形式列と呼ぶ。
数列は外的関係ではなく、内的関係で順序づけられる。
以下のような命題の列も同様である。
  「aRb」、
  「(x) : aRx . xRb」、
  「(x, y) : aRx . xRy . yRb」、
  等々
ba に対してこうした関係にあるとき、ba の後継と呼ぶ。)
  4.126
形式的性質という用語を用いたのと同様の意味において、いまやわれわれは形式的概念についても論じることができる。
(私が形式的概念という用語を持ち込むのは、旧来の論理学全体が形式的概念と狭義の概念との混同に貫かれているからであり、その混同の原因を明らかにするためである。)
あるものがある形式的概念にあてはまる対象の一つであるとき、そのことは命題で表現できない。しかしそれは、その対象を表すシンボルのうちに示される。(名はそれが表しているものが一つの対象であることを示す。数字はそれが表しているものが数であることを示す、等々。)
形式的概念を、狭義の概念のように関数を用いて表すことは、まったく不可能である。
なぜならば、形式的概念の特性である形式的性質は、関数で表現されないからである。
形式的性質の表現は、しかるべきシンボルの相貌*である。
それゆえある形式的概念の特性を表す記号は、その概念にあてはまるすべての対象のシンボルがもつ、それらに特徴的な相貌である。
したがって、形式的概念はこの特徴的な相貌だけを定項として残した命題可変項として表現される。
+ 4.127
命題可変項は形式的概念を表し、その値はその概念にあてはまる対象を表す。
  4.1271
すべての可変項は形式的概念の記号である。
なぜなら、可変項はいづれも、そのすべての値が共有する、そしてそれらの値の形式的性質とみなしうる定数的形式を表しているのだからである。
+ 4.1272
こうして、可変項名「x」が対象と言う擬似概念に対する本来的な記号なのである。
「対象」(「もの」「こと」等)という語が正しく使用されているかぎり、それは概念記法においては可変項名という形で表現される。
たとえば、「・・・である二つの対象がある」という命題では「(x, y)・・・」と表される。
それ以外の場合、すなわち固有の概念を表すものとして使用されている場合には、つねにナンセンスな擬似命題が発生する。
たとえば、「本がある」と語るように「対象がある」と語ることはできない。同様に、「百個の対象がある」とか「0個の対象がある」と語ることもできない。
そして全対象の総数について語ることもナンセンスである。
同じことが、「複合的なもの」「事実」「関数」「数」等々の語についてもあてはまる。
これらすべては形式的概念を表しており、概念記法では、可変項によって表され、(フレーゲやラッセルが考えたように)関数や集合によって表されるのではない。
1 は数である」「ただ一つのがある」といった表現、およびこれに類するものはすべてナンセンスである。
(「ただ一つ 1 がある」と語ることは、「2 + 2 は三時には 4 に等しい」と語ることと同様にナンセンスである。
  4.12721
形式的概念は、それにあてはまる対象とともに、すでに与えられている。それゆえ、ある形式的概念に属する対象と、その形式的概念そのものとを、ともに基本的概念として導入することはできない。それゆえ、たとえば、(ラッセルのように)関数の概念と特定の関数とを、ともに基本概念として導入することはできない。あるいはまた、数の概念と特定の数についても同様である。
  4.1273
ba の後継である」という一般的命題を概念記法で表現しようとするならば、次の形式列の一般項を表す表現が必要となる。
  aRb
  (x) : aRx . xRb
  (x, y) : aRx . xRy . yRb
  等々
形式列の一般項は可変項によってのみ表現できるが、それは「この形式列の一般項」という概念が形式的概念であるからである。(このことをフレーゲとラッセルは見落とした。そのため、こうした一般命題を表現しようとして彼らが取った方法は間違っている。それは悪循環を含んでいる。)
われわれは、その形式列の初項を示し、かつ、先行する命題をもとに後継の項を作り出す操作の一般形式を示すことによって、この形式列の一般項を規定することができる。
  4.1274
形式的概念の存在を問うことはナンセンスである。いかなる命題もそのような問いに答えることはできないからである。
(たとえば「分析不可能な主語-述語命題は存在するか」と問うことはできない。)
  4.128
論理形式には数の概念がない。
それゆえ論理には卓越した数は存在しない。したがって哲学的一元論、二元論、等々は存在しえない。
+ 4.2
命題の意義とは、事態の成立・非成立の可能性と、その命題との一致・不一致である。
+ 4.21
もっとも単純な命題、すなわち要素命題は、ある事態の成立を主張する。
  4.211
要素命題の特徴は、いかなる要素命題もそれと相反しえないことである。
+ 4.22
要素命題は名から成り立つ。それはいくつかの名の連関・連鎖である。
+ 4.221
命題を分析していけば、明らかに、名が直接結合してできた要素命題に行きつかざるをえない。
ここにおいて、いかにして命題と命題が結合されるのかという問が生じる。
  4.2211
たとえ世界が無限に複合的で、どの事実も無限に多くの事態からなり、どの事態もまた無限に多くの対象から構成されていたとしても、それでもなお対象と事態は存在していなければならない。
  4.23
名は、要素命題の文脈においてのみ、命題に現れる。
+ 4.24
名は単一なシンボルである。私は、それを個々の文字(「x」、「y」、「z」)で表す。
要素命題を私は、名の函数として、「fx」, 「φ(xy)」 等の形式で書く。
あるいは、pqr という文字でも表す。
  4.241
二つの記号を一つの同じ意味で使用する場合、私は両者の間に記号 「=」 をおくことによって表現する。
それゆえ 「a = b」 は、記号 「a」 は記号 「b」 で置き換え可能ということである。
(私が、等式によって新しい記号 「b」 を導入し、その記号を既知の記号 「a」 と置き換えるべきものと決めるとき、私はその等式--定義--を(ラッセルにならって) 「 a = b」 という形式で書く。定義とは、記号の使用規則である。)
  4.242
それゆえ、 「a = b」 という形式の表現は、描写の為の補助手段にすぎない。それは記号 「a」 「b」 の意味については何も語らない。
  4.243
二つの名が同じものを表しているのか、それとも異なるものを表しているのかを知らずに、それらを理解することができるだろうか--同じ意味なのか異なる意味なのか分からない二つの名を含む命題を、われわれは理解できるだろうか
ある英単語の意味を把握しており、またそれと同義のドイツ語単語の意味も把握しているならば、両者が同じ意味であると知らないことはありえない。それらを相互に翻訳できないということなどありえない。
a = a」 のような表現、又そこから導かれる表現は、要素命題ではないし、それ以外の何か有意義な記号でもない。(この点は後述する。)
  4.25
ある要素命題が真ならば、その事態は成立している。偽ならば、その事態は成立していない。
  4.26
すべての真な要素命題を挙げれば、世界は完全に記述される。すべての要素命題を挙げ、さらに、そのいずれが真で、いずれが偽であるかを述べれば、世界は完全に記述される。
  4.27
n 個の事態の成立・非成立にかんして、 通りの可能性がある。
どの事態の組み合わせも成り立ち、そして他の組み合わせは成り立っていないということが可能である。
  4.28
これらの事態の組み合わせに、n 個の要素命題の真--および偽--の可能性が、同じ数だけ対応している。
+ 4.3
要素命題*の真理可能性とは、事態の成立・非成立の可能性を意味している。
  4.31
真理可能性は次のような図表で表すことができる。(要素命題の行にある「」と「」は、要素命題の真理可能性を分かりやすく表したものである。)
p
p
q
p
q
r
+ 4.4
命題とは、その要素命題の真理可能性との一致・不一致の表現である。
+ 4.41
要素命題の真理可能性が命題の真・偽の条件である。
  4.411
直ちに予期されるように、要素命題の導入が他のすべての種類の命題を理解するための基礎を与える。実際、一般命題の理解は歴然として要素命題の理解に依存している。
  4.42
ある命題が n 個の要素命題の真理可能性のどれと一致し、どれと一致しないかには の可能性がある。
+ 4.43
真理可能性との一致は、4.31の図表*の真理可能性に「」という符号を付加することにより表現することができる*
この符号がなければ、不一致を意味する。
  4.431
要素命題の真理可能性との一致および不一致の表現が、その命題の真理条件を表す。
命題はその真理条件の表現である。
(それゆえフレーゲが彼の概念記法の記号の説明としてまず真理条件を与えたことは、完全に正しかった。ただし、フレーゲの真理概念の説明はまちがっている。フレーゲの言うように「真」「偽」が対象であり、 ~p 等々における入出力項であるとするならば、フレーゲの規定による「~p」 の意味はまったく定まらないことになるだろう。)
+ 4.44
真理可能性に「」という符号を付加して作られる記号が命題記号である。
  4.441
明らかに、記号「」および「」の複合はいかなる対象にも(対象の複合にも)対応しない。同様に水平線と垂直線、あるいは括弧も対象に対応しない。--「論理的対象」は存在しない。
もちろん「」と「」の図表と同じことを表現する記号についても、同様である。
  4.442
例えば
p
q
」 は命題記号である。
(フレーゲの「判断線」「」は論理的にはまったく意味をもたない。それはフレーゲ(そしてラッセル)において、ただ彼らがこの記号のついた命題を真とみなしていることを表すにすぎない。「」はそれゆえ、命題に付された番号と同様、命題の一部ではない。命題が自分自信について真であると語ることはできない。)
図表における真理可能性の列の並び方を組み合わせ規則によってあらかじめすべて決定しておけば、最終行だけで真理条件の一組を表現するには十分である。そこでこの行を書き出せば、その命題記号は次のようなものになる。
  「()(p, q)」
あるいは、より明示的に
  「()(p, q)」。
(左の括弧内の項の数は右の括弧内の項数に応じて決まる。)
  4.45
n 個の要素命題にたいして、Ln 個の真理条件*の組が可能である。
一連の要素命題の真理可能性から得られる真理条件の組は、順序をつけて配列できる。
+ 4.46
真理条件の可能な組の中に、二つの極端な場合がある。
ひとつは、要素命題のすべての真理可能性に対してその命題は真となる。このとき、この真理条件の組はトートロジー的であるという。
もうひとつは、すべての真理可能性に対してその命題は偽となる。この真理条件の組は矛盾的である。
第一の場合、その命題はトートロジーと呼ばれ、第二の場合には矛盾と呼ばれる。
+ 4.461
命題はそれが語っていることを示しているが、トートロジーと矛盾は、それが何も語らないことを示している。
トートロジーは無条件に真であり、従って真理条件をもたない。そして、矛盾は真となる条件をもたない。
トートロジーと矛盾は無意義である。
(それは、二本の矢が反対の方向に飛び去ったあとの点のようである。)
(たとえば、今雨が降っているか降っていないかどちらかであると知っていても、私が天気について何か知っていることにはならない。)
  4.4611
しかしトートロジーと矛盾はナンセンスではない。それらは、「0」が算術の記号体系の一部であるように、記号体系の一部である。
  4.462
トートロジーと矛盾は現実に対する像ではない。それは可能な状況を描写しない。前者は可能な状況をすべて許容し、後者はまったく許容しない
トートロジーでは、世界との一致の条件--描写の関係--が互いに打ち消しあい、その結果、現実といかなる描写の関係にも立たない。
  4.463
真理条件は、その命題が事実に許容する可能な範囲を規定する。
(命題、像、模型、これらは、否定的な意味では、相互の運動の自由を制限する固体のようなものであり、肯定的意味では、物体が位置を占めることのできる、固体的実体で枠づけられた空間のようなものである。)
トートロジーは、現実がありうる位置として論理空間の全体を--無限に--許容する。矛盾は、論理空間全体を埋め尽くし、現実に場所を残さない。それゆえ、どちらも決して現実を規定できない。
  4.464
トートロジーが真であることは確実であり、命題が真であることは可能、矛盾が真であることは不可能である。
(確実、可能、不可能--ここに、確率論で必要となる概念の最初の兆しがある。)
  4.465
トートロジーと命題との論理積はその命題と同じことを語る。すなわち、その論理積は、その命題と同一である。というのは、シンボルの意義を変えずに、シンボルにとって本質的なものを変えることはできないからである。
+ 4.466
記号を特定の仕方で論理的に結合したものは、その記号の意味を特定の仕方で論理的に結合したものに対応する。しかし、すべての任意的結合に対しては、結合されていない記号しか対応しない。
言いかえると、いかなる状況に対しても真となる命題は、およそ記号の結合ではありえない。そうでなければ、それらの命題には対象の特定の結合だけが対応しているはずであるから。
(そして、論理的結合でないものには、それに対応する対象の結合もまた存在しない。)
トートロジーと矛盾は記号結合の極限的事例である。すなわち、記号結合の解消である。
  4.4661
もちろん、トートロジーや矛盾のなかでも記号は互いに結合されている、すなわち、記号は相互に関係している。しかしこの関係は意味を持っていない、それはシンボルにとっては非本質的なのである。
+ 4.5
いまや、もっとも普遍的な命題形式を示すことができると思われる。いいかえると、なんらかの記号言語によって命題とはいかなるものであるのかを記述することが可能であると思われる。そのとき、名の意味を適切に選んでやれば、すべての可能な意義は、その記述にあてはまる記号によって表現することができ、また、その記述にあてはまる記号はすべて、相応の意義を表現しうることになる。
明らかに、もっとも普遍的な命題形式の記述においては、その本質的なものだけが記述されなければならない。--さもなければ、その形式はもっとも普遍的なものではないことになる。
予見(すなわち構成)不可能な形式をもつ命題は存在しえない。このことは、普遍的な命題形式が存在することを示している。「事実はしかじかである。」--これが命題の普遍的形式である。
  4.51
私にすべての要素命題が与えられたと仮定する。そのとき単純に、それらの要素命題を用いて、いかなる命題を構成しうるかと言うことが問題となる。そうして得られた命題が全命題であり、このようにして命題は限界づけられている。
  4.52
要素命題のすべてから(そしてもちろん、それが要素命題のすべてだという事実もふくめて、そこから)全命題が導かれる。(それゆえ、ある意味では、すべての命題は要素命題の一般化であると言うことができる。)
  4.53
一般的命題形式は可変項である。
+ 5
命題は要素命題*の真理関数である。
(要素命題は自分自身の真理関数である)
+   
  5.01
要素命題は命題の真偽入力項である。
  5.02
関数の入力項と名に添えられた目印とは混同されやすい。というのは、入力項や目印を含む記号の意味を理解しようとするとき、どちらの場合も同じように、入力項や目印の記号に頼るからである。
例えばラッセルの 「+c」 では、「c」はそれが添付された記号の全体が、基数に対する加算記号であることを示す目印である。しかし、この表し方は恣意的な取り決めによるものであり、「+c」の代わりに目印を持たない別の単純な記号を選んでもよかったのである。しかし、「~p」における「p」は目印ではなく入力項である。「~p」の意義は、「p」の意義が予め理解されていない限り、理解することはできない。(ユリウス・カエサルという名において、「ユリウス」は目印である。目印は、つねに、その目印を付けた名の対象に対する記述の一部となっている。たとえば、「ユリウス家のそのカエサル」のように。)
私の誤解でなければ、フレーゲの命題および関数の意味についての理論の根底には、この混同がある。すなわち、フレーゲにとっては論理学の命題は名であり、それゆえにその命題の項は名に付された目印だったのである。
+ 5.1
真理関数は一列に順序付けすることができる。
これが確率論の基礎である。
+
  5.101
任意個の要素命題に対し、その真理関数は次のような図表に書き表すことができる。
()(p, q)トートロジー(p ならば p、かつ q ならば q。) (p p .q q
()(p, q)言葉にすると : p かつ q ということはない。 (~(p .q)
()(p, q)  ”   ”   q ならば p。 (q p
()(p, q)  ”   ”   p ならば q。 (p q
()(p, q)  ”   ”   p または q。 (p q
()(p, q)  ”   ”   q ではない。 (~q
()(p, q)  ”   ”   p ではない。 (~p
()(p, q)  ”   ”   pq の一方のみ。(p .~q :∨: q .~p
()(p, q)  ”   ”   p ならば q 、かつ q ならば p。(p q
()(p, q)  ”   ”   p
()(p, q)  ”   ”   q
()(p, q)  ”   ”   p でも qでもない。 (~p .~q あるいは p | q
()(p, q)  ”   ”   p かつ qではない。 (p .~q
()(p, q)  ”   ”   q かつ pではない。 (q .~p
()(p, q)  ”   ”   q かつ p。(q .p
()(p, q)矛盾(p かつ p でなく、q かつ q でない。) (p .~p .q .~q
これら真偽項の真理可能性のうち、とくにその命題を真にする真理可能性を、その命題の真理根拠と呼ぶ。
  5.11
いくつかの命題に共通の真理根拠*がすべてある命題の真理根拠にもなっているとき、この命題が真であることは先の命題から帰結すると言われる。
+ 5.12
とくに、命題「q」の真理根拠のすべてが命題「p」の真理根拠であるとき、「p」が真であることは「q」が真であることから帰結する。
  5.121
pq から帰結する」とは、 一方の真理根拠が他方の真理根拠に含まれるということである。
  5.122
pq から帰結するならば、「p」の意義は「q」の意義に含まれている。
  5.123
神がある命題を真とする世界を創造するならば、それにより、神はまたその命題から帰結するすべての命題が真となる世界をも創造する。同様に、神は、命題「p」のすべての対象を創造せずに命題「p」が真となる世界を創造することはできない。
+ 5.124
命題は、そこから帰結するすべての命題を肯定する。
  5.1241
p . q」は、「p」を肯定する命題の一つであり、同時に「q」を肯定する命題の一つでもある。
双方を肯定する有意義な命題が存在しないとき、二つの命題は互いに対立の関係にある。
ある命題と矛盾する命題はすべて、その命題を否定する。
+ 5.13
ある命題の真偽が他の命題の真偽から帰結されることは、それらの命題の構造から見てとれる。
+ 5.131
ある命題の真偽が他の命題の真偽から帰結するとき、そのことはそれら命題の形式相互間の関係によって表現されている。そして、それら命題の相互関係をあらためて一つの命題のうちに表す必要はない。これらの関係は内的であり、関係する命題が成立すれば、それと同時に、そしてそれによって、関係は成立している。
  5.1311
p q~p から q を推論するとき、「p q」と「~p」の命題形式間の関係はこの表現方法によって隠されている。しかし、たとえば「p q」の代わりに「p | q .|. p | q」、「~p」の代わりに「p | p」(p | qp でも q でもない)と書いたとすれば、両者の内的連関が明らかになるだろう。
(x) . fx から fa を推論することができる、この事実が「(x) . fx」というシンボルそれ自体にも一般性が存在していることを示している。)
  5.132
pq から帰結するならば、q から p を推論することができる。すなわちpq から導き出される。
推論の仕方はただ二つの命題からのみ、取りだすことができる。
それら二つの命題、それ自身だけが、推論を正当化することができるのである。
推論を正当化するものとしての--フレーゲとラッセルの言うような--「推論法則」は、無意義であり、余計なものでもあろう。
  5.133
すべての導出はア・プリオリになされる。
  5.134
ある要素命題から他の要素命題が導き出されることはない。
  5.135
ある状況が成立していることから、それとはまったく別の状況の成立を推論することは、いかなる仕方でも不可能である。
+ 5.136
そのような推論を正当化する因果関係は存在しない。
  5.1361
未来のできごとを現在のできごとから推論することはできない。
因果関係を信じることは迷信である。
  5.1362
意志の自由は、未来の行為をいま知ることができないということに成立する。因果性が、論理的推論の必然性のように、内的必然性であるとすれば、その場合にのみ、われわれは未来の行為を現在知ることができるだろう。--このとき、知ることと知られたものとの連関は、論理的必然性の連関にあることになる。
(しかしながら、「A は p が成立することを知っている」は、p がトートロジーの時には、無意義である。)
  5.1363
ある命題がわれわれにとって自明であるとしても、このことからその命題が真であることが帰結しているのではない。とすれば、自明性もまた真理に対するわれわれの信念を正当化するものではない。
+ 5.14
ある命題が他の命題から帰結するとき、後者は前者より多くのことを、前者は後者よりもわずかなことを語っている。
  5.141
pq から帰結し、qp から帰結するとき、両者は同一の命題である。
  5.142
トートロジーはあらゆる命題から帰結する。トートロジーは何も語らない。
  5.143
矛盾は、どんな命題も他の命題と共有することのない、命題の共有性である。トートロジーは、互いに共有するものをもたないすべての命題の共有性である。
矛盾はいわば全命題の外側に消え去り、トートロジーは全命題の内側に消え去る。
矛盾は命題の外側の限界であり、トートロジーはその空虚な中心である。
+ 5.15
Wr を命題「r」の真理根拠の数、Wrs を命題「s」の真理根拠のうち同時に命題「r」のそれでもある真理根拠の数とする。そのとき、比 Wrs: Wr を命題「r」が命題「s」に与える確率の測度と呼ぶ。
+ 5.151
先の5.101*で示した図表において、Wrを命題 r における「真」の数、Wrs を命題 r で「真」となっている同じ列で、命題 s も「真」となっている数とする。そのとき、命題 r が命題 s に与える確率は Wrs: Wr である。
  5.1511
確率命題だけに固有の特別な対象はない。
  5.152
真偽の項を互いに一つも共有しない命題は、互に独立であると言われる。
二つの要素命題は、それぞれ互いに確率 1/2 を与える。
p から q が帰結するとき、命題「q」は命題「p」に確率 1 を与える。論理的推論の確実性は確率の極限的ケースである。
(これはトートロジーと矛盾にも適用される。)
  5.153
一つの命題は、それ自体では、確からしいとか確からしくないということはない。できごとは起きるか起きないかであり、中間は存在しない。
  5.154
壷の中に同数の白い玉と黒い玉が入っているとする(それ以外は何もない)。私は一つずつ玉を取り出し、そしてそれを再び壷に戻す。このとき、取り出された黒と白の玉の数が回を重ねるうちに互いに近づいてくることを、この実験によって確認できる。
それゆえ、この事実は数学的事実ではない。
そこで私が、白い玉を取り出すことは黒い玉を取り出すことと同程度に確からしいと言うとすれば、それは、私が把握しているすべての状況(仮説として立てられた自然法則も含め)のもとでは、一方のできごとが起きる確率は他方が起きる確率と比べてより大きくはない、ということを意味しているのである。すなわち、この状況のもとでは--先の説明から容易に分かるように--、それぞれの確率は 1/2 になる。
私がこの実験によって確かめえたことは、両者の生起は、細部までは知らない状況に依存しているのではない、ということである。
  5.155
確率命題の基本形はこうである。--私がとくに詳しく知っているとはいえぬ諸状況は、あるできごとの生起にしかじかの大きさの確率を与える。
  5.156
このように、確率とは一般化である。
すなわち、確率は命題形式の一般的記述を含んでいる。
確実性に欠けるときのみ、われわれは確率を必要とする。--ある事実を完全には把握していない場合であっても、しかし、われわれはその事実の形式については何ごとかを知っている。
(命題は、ある特定の状況の不完全な像であるだろう。しかし、像としては、つねに一つの完全な像である。)
確率命題はいわば他諸命題の抜粋なのである。
+ 5.2
諸命題の構造は、内的に関係しあっている。
  5.21
命題を操作の結果として、すなわち、他の諸命題(操作の基底)にその命題を生成する操作を適用した結果として表すことによって、これらの内的関係を強調することができる。
  5.22
操作は、結果と基底のそれぞれの構造間の関係を表す。
+ 5.23
操作は、ある命題から他の命題を作りだすために、前者の命題に対して適用されるべきものである。
  5.231
そしてそれは、もちろん、両者の形式的性質に、すなわち両者の形式がもつ内的な類似性に、依存する。
  5.232
ある系列を順序づける内的関係は、その系列の一つの項を他の項から作り出す操作に等しい。
  5.233
操作は、論理的に意味のある仕方で命題が他の命題から作られるとき、初めて成り立ちうる。すなわち、命題の論理的構成が始まるとき、初めて成り立ちうる。
+ 5.234
要素命題の真理関数は、要素命題を基底とする操作の結果である。(私はこの操作を真理操作と呼ぶ。)
  5.2341
p の真理関数の意義は p の意義の関数である。
否定、論理和、論理積、等々は操作である。
(否定は命題の意義を逆転する。)
+ 5.24
操作は可変項の形に表せる、それはある命題の形式から他の命題の形式をいかにして得ることができるかを示している。すなわち操作はそれら形式の違いを表している。
(そして、操作の基底と結果に共通なものは、その基底そのものである。)
  5.241
操作は、形式を特徴づけるのではなく、ただ形式の違いだけを特徴づける。
  5.242
p」から「q」を作りだす操作が、また「q」から「r」を作りだす、以下同様。このことは、「p」「q」「r」等が可変項であり、かつそれらによってある形式的関係が一般的に表現されていることによってのみ、表現可能である。
+ 5.25
操作を適用されているということは、その命題の意義を特徴づけはしない。
操作はなにも語らない、操作の結果だけがなにものかを語る、そしてそれは操作の基底に依存している。
(操作と関数は混同されてはならない。)
  5.251
関数はその関数自身の入力項になりえないが、操作の結果は再びその操作の基底となることができる。
+ 5.252
そのようにしてのみ、ある形式系列において、項から項へと順次進んでいくことが可能である(ラッセルとホワイトヘッドの階型のなかで、タイプからタイプへと順次進んでいくこと)。(ラッセルとホワイトヘッドはタイプからタイプへと順次進んでいく可能性を認めなかったが、しかし彼らは繰り返しそれを利用している。)
  5.2521
操作をその操作の結果に繰り返し適用すること、これを私は操作の繰り返し適用と呼ぶ。(「O'O'O'a」は「a」に「O'ξ」を三回繰り返し適用した結果である。)
いくつかの命題に対する複数の操作の繰り返し適用についても、同様の意味で語られる。
  5.2522
そこで、形式列 a, O'a, O'O'a, . . . . の一般項を [a, x, O'x] と書くことにする。この括弧つき表現は一つの可変項である。括弧つき表現の最初の項は形式列の初項であり、二番目は列の任意の項 x の形式であり、そして三番目は列において x のすぐ後に続く項の形式である。
  5.2523
操作の繰り返し適用という概念は「以下同様」という概念に等しい。
  5.253
ある操作は他の操作の効果を打ち消すことができる。操作は相殺できる。
  5.254
操作は消えてなくなることもできる。(たとえば「~~p」における否定のように。 ~~p = p
+ 5.3
すべての命題は要素命題に真理操作*を適用した結果である。
真理操作とは、要素命題から真理関数を作りだす方法である。
要素命題から真理関数を作りだす方法と同じ方法で、真理関数からも新たな真理関数が作りだされる、これは真理操作の本質である。すべての真理操作は、要素命題の真理関数から再び要素命題の真理関数を、すなわち命題を作り出す。諸要素命題に真理操作を適用した結果にさらに真理操作を続けて適用した結果はすべて、それら要素命題にある単一の真理操作を適用した結果である。
どの命題も要素命題に真理操作を適用した結果である。
  5.31
4.31の図表*は、「p」、「q」、「r」等が要素命題でない場合にも意味を持つ。
そして容易に見て取れるように、4.442の命題記号*は、「p」と「q」が要素命題の真理関数である場合にも、要素命題に対する一つの真理関数を表す。
  5.32
すべての真理関数は、要素命題に対し真理操作を有限回繰り返し適用した結果である。
+ 5.4
ここにおいて、「論理的対象」あるいは「論理定項」(フレーゲとラッセルの意味における)は存在しないことが明らかになる。
  5.41
なぜならば、真理関数にどのような真理操作を適用しても、その結果が要素命題の同じ真理関数であるならば、それらは同一であるからである。
  5.42
明らかに , 、 等々は、右、左、等が関係とされる意味では、関係ではない。
フレーゲの論理的「原始記号」とラッセルのそれとが相互に定義しうるということは、その事実だけですでに、これらが原始記号ではなく、さらに、それらがいかなる関係をも表していないことを示している。
そして明らかに、「~ 」と「」を用いて定義される「」は、「」と「 ~ 」で「」を定義するときの「」と同じであり、また後者の「」は前者の「」と同じである、等々。
  5.43
一つの事実 p からそれとは別の事実、例えば ~~p~~~~p、等々が無限に帰結しなければならないと言うことは、実に信じがたいことである。そして、無限個の論理学(数学)の命題が半ダースほどの「基本法則」から帰結するということも、これに劣らず驚くべきことである。
しかし、論理学の命題はすべて同じことを語っている。すなわち、何も語っていないのである。
+ 5.44
真理関数は実質的な関数ではない。
たとえば、二重否定によって肯定命題を作り出すことができる、では肯定命題は、なんらかの意味で、否定を含んでいるのだろうか。「~~p」は、「~p」を否定しているのか、それとも p を肯定しているのか、それとも、その双方なのか。
命題「~~p」は対象に関わるように否定命題に関わっているのではない、しかし否定命題の可能性は肯定命題のうちにすでに先取りされている。
かりに「~」と呼ばれる対象が存在するとすれば、「~~p」は「p」とは異なることを語っていなければならなくなる。なぜなら、「~~p」は対象 ~ に関わっているが、「p」はそうではないからである。
  5.441
こうした見かけ上の論理定項の消失は、「~(x) . ~fx」が「(x) . fx」と同じことを語るとき、あるいは「(x) . fx . x = a」が「fa」と同じことを語るときにも、現れる。
  5.442
われわれに一つの命題が与えられるとき、その命題とともに、それを基底とするすべての真理操作の結果もまた、すでに与えられている。
+ 5.45
論理的原始記号が存在するのであれば、正しい論理学はそれら原始記号間の関係を明らかにし、それら原始記号がなくてはならないものであることを示さねばならない。それらの原始記号から出発して論理がいかに構成されるのかが明らかにされなければならない。
  5.451
論理がいくつかの基本概念をもつとすれば、それらは互に独立でなければならない。一つの基本概念が導入されるときには、その概念が現れるすべての記号結合で導入されねばならない。すなわち、まず一つの記号結合に対して基本概念を導入し、その後、別の記号結合に対して再導入する、というわけにはいかないのである。たとえば、否定が導入されたならば、その時点でわれわれは、「~p」という形式の命題だけでなく、「~(p q)」や「(x) . ~fx」といった形式の命題においても否定を理解するのでなければならない。まずある事例の組に対して否定を導入し、次に別の事例の組に対して導入する、というようにしてはならないのである。なぜならば、両者の事例において否定の意味が同じかどうかが疑わしいまま放置され、そして両者の事例で同じ記号結合の方法を用いるべき理由もなくなるであろうから。
(要するに、フレーゲが定義による記号の導入に対して語ったこと(「算術の基本法則」)が、必要な変更を加えて、原始記号の導入に対してもあてはまるのである。)
  5.452
論理の記号体系に新たな道具立てを導入するとき、それはいかなる場合であれ、重大な出来事でなければならない。新たな道具立てが--いわばまったく何食わぬ顔をして--括弧の中や脚注で論理に導入されるようなことがあってはならないのである。
(ラッセルとホワイトヘッドの「プリンキピア・マセマティカ」では、定義および基本法則は言葉で表される。なぜここでいきなり言葉なのか。これは正当化が必要なことである。しかし、正当化されていないし、正当化できるはずもない。実のところ、このようなやり方は許されていないのだから。)
しかし、ある箇所で新たな道具立ての導入が必要になったときには、われわれは、この道具立てが一貫して用いられるべき場所はどこなのか、ただちに自分自身に問わねばならない。そして論理におけるその位置付けが明らかにされなければならないのである。
  5.453
論理における数はすべて正当化できなければならない。
あるいはむしろ、論理には数は存在しないことが明らかにならなければならない。
論理には、特別扱いされる数は存在しない。
+ 5.454
論理においては共存は存在しない、いかなる類別もありえない。
論理においては、より一般的、より特殊ということもありえない。
  5.4541
論理の問題の解決は簡潔でなければならない。というのも、それが簡潔ということの基準を設定するのだから。
答えはア・プリオリに調和のうちにあり、そして完結した規則的構造へと統一されている、そんな解決を与える設問の領域があるはずだという予感を、ひとはつねに抱いていた。
「簡潔さは真理の印」という格言の成り立つ領域。
+ 5.46
論理記号が正しく導入されたならば、それとともにそのあらゆる組み合わせの意味もまた、既に導入されている。すなわち、「p q」のみならず、「~(p q)」等々も同時に導入されているのである。その時また、すべての可能な括弧の組み合わせも、既に導入されていることになるだろう。そしてこのことから、本来的な一般原始記号とはけっして「p q」や「(x) . fx」等々ではなく、それらの組み合わせのもっとも一般的な形式であることが明らかとなるだろう。
+ 5.461
」や「」といった見かけ上の関係は、本来の関係とは異なり、括弧を必要とする。この一見ささいな事実は、大きな意味をもっている。
これら見かけ上の原始記号に伴う括弧の使用は、まさにそれらの記号が本来の原始記号ではないことを示している。そして確かに、括弧がそれだけで自立した意味をもっているなどとは誰も思わないだろう。
  5.4611
論理操作の記号は句読点なのである。
+ 5.47
全命題の形式について、前もって語ることができるすべては、明らかに、一度に語られなければならない。
要素命題のうちに、すでにあらゆる論理操作が含まれている。なぜなら、「fa」は
   「(x) .fx . x = a
と同じことを語っているのだから。
構成されたものがあるところ、入力項と関数があり、入力項と関数があるところ、すべての論理定項がすでにある。
こう言うこともできよう、唯一の論理定項は、すべての命題がその本性上共有するものである。
しかし、これこそが一般的な命題形式なのである。
+ 5.471
一般的な命題形式が命題の本質である。
  5.4711
命題の本質を与えることは、すべての記述の本質を与えることであり、それゆえ世界の本質を与えることである。
  5.472
もっとも一般的な命題形式の記述は、論理における一つのそしてただ一つの一般的な原始記号を記述することである。
+ 5.473
論理は自分のことは自分で処理しなければならない。
可能である記号は、同時に表現として成立可能でなくてはならない。論理において可能であることすべては、また許されているのである。(「ソクラテスは同一である」は「同一である」という性質が存在しないので、何も意味しない。しかし、その命題がナンセンスであるのは、われわれの恣意的取り決めが不適切であったからであって、そのシンボルそれ自体が不当であるからではない。)
ある意味でわれわれは、論理において間違うことができないのである。
  5.4731
ラッセルは自明性について多くを語っているが、論理において自明性は無しで済ますことができる。理由は単に、言語自身があらゆる論理的誤謬を避けるからである。--論理がア・プリオリであると言うことは、非論理的には思考できないということを意味している。
+ 5.4732
記号に誤った意義を与えることはできないのである。
  5.47321
オッカムの格言はもちろん恣意的な規則ではない。また実際上の成果によって正当化されるような規則でもない。それは単に、不必要な記号要素は何も意味しない、と語っている。
一つの目的を果たす記号は互いに論理的に同値であり、いかなる目的も果たさない記号は論理的に無意味である。
  5.4733
合法的に構成されたあらゆる命題は意義をもたねばならない、とフレーゲは述べている。私は以下のように言う。あらゆる可能な命題は合法的に構成されている、そしてもしそれが意義をもたないとすれば、それはただその構成要素のいくつかに意味を与えておかなかったからにすぎない。
(たとえ自分では与えたと思っているとしても。)
それゆえ「ソクラテスは同一である」は何も語っていない、なぜなら「同一である」という語に対し形容詞としてのいかなる意味も与えていなかったのだから。つまり、この語が同一性を表す記号として用いられるときには、形容詞とはまったく異なった仕方で--別の関係を表すものとして--シンボル化されているのである。それゆえ、両者はまったく異なったシンボルであり、二つのシンボルがたまたま同じ記号を共有していたにすぎない。
  5.474
必要な基本操作の数は、ただわれわれの表記法だけに依存している。
  5.475
必要なことは、一定の次元の数--一定の数学的多様性--でもって記号体系を構成しなければならない、ただそれだけである。
  5.476
あきらかにここで問題となっているのは、表されるべき基本概念の数ではなく、規則の表現である。
+ 5.5
いかなる真理関数も、要素命題に次の操作を繰り返し適用した結果である。
     ()(ξ、. . . .)
この操作は右の括弧内のすべての命題を否定したものであり、この操作をそれらの命題の否定と呼ぶ。
+
  5.501
命題を項として、括弧でくくった表記--括弧内の項の順序は問わない--を、私は「(ξ)」という形の記号で表す。「ξ」は括弧表記内の項を値とする可変項である。そして可変項の上の横棒は、それが括弧内のすべての値のかわりであることを表す。
(すなわちξが三つの値 P, Q, R をもつ場合は、(ξ) = (P ,Q, R) となる。)
可変項のとりうる値は規定されている。
可変項の値の規定とは、その可変項が表す諸命題の記述である。
括弧表記内の項がどのように記述されるかは本質的なことではない。
その記述方法は3種類に分けることができる。1、直接枚挙する。この場合、われわれは可変項の代わりにたんにその値となる定項を置けば良い。2、関数 fx の提示、x のすべての値に対する関数の値が、記述されるべき命題である。3、形式的規則の提示、その規則に従って、記述されるべき命題が構成される。この場合には、括弧表記内の項は、この規則によって構成される形式列のすべての項となる。
  5.502
そこで私は、「()(ξ、. . . .)」の代わりに「N(ξ)」と書く。
N(ξ) は、命題可変項 ξ のすべての値に対する否定である。
  5.503
この操作を用いて、どのようにして命題を構成できるのか、あるいはまたどのようにして構成できないのか、それは明らかに容易に表せる。したがって、これらの正確な表現を見出すことが可能でなければならない。
+ 5.51
ξ が一つの値だけをもつ場合、N(ξ)* = ~pp でない)となり、二つの値をもつ場合は、N(ξ) = ~p . ~qp でなく q でもない)となる。
  5.511
すべてを包括し世界を反映する論理に、どうしてこの様な特殊なかぎ針と編み方を用いることができるのだろうか。それはひとえに、これらすべてが限りなく精巧な網の目に互いにつなぎ合わされ、巨大な鏡へ編み上げられるからである。
  5.512
~p」が真であるのは、「p」が偽のときである。それゆえ、真な命題「~p」において、「p」は偽な命題である。では波線「~」はどのようにして、この偽な命題「p」を現実に一致させることができるのだろうか。
しかし、「~p」において否定するものは「~」ではなく、この表記法において p を否定するすべての記号に共通なものである。
すなわち、それは 「~p」 「~~~p」 「~p ~p」 「~p . ~p」 等々を(無限に)構成する共通の規則である。そしてこの共通なものが、否定を反映するのである。
  5.513
次のように言えるだろう。 pq をともに肯定するすべてのシンボルに共通なもの、それが命題「p . q」である。pq のいずれかを肯定するすべてのシンボルに共通なもの、それが「p q」である。
そこでまたこう言うこともできるだろう。二つの命題が何ひとつ共通のものをもたないとき、両者は互いに対立の関係にある。そして、いかなる命題も、その否定はただ一つである。なぜなら、その命題の外側全体に横たわる命題はただ一つしかないのだから。
それゆえ、ラッセルの表記法においても、「q : p ~p」は「q」と同じことを語り、「p ~p」は何も語らないことが示される。
  5.514
ひとたび表記法が定められたならば、p を否定するすべての命題を構成する規則、p を肯定するすべての命題を構成する規則、pq のいずれかを肯定するすべての命題を構成する規則、等々がその表記法のうちに存在することになる。これらの規則はシンボルと同等であり、規則のうちにシンボルの意義が反映されている。
+ 5.515
」「.」等がただ命題だけを結合することが、われわれのシンボルにおいて明示されなければならない。
実際、われわれのシンボルはそのことを示している、つまり「p」や「q」といったシンボル自体、すでに「」や「~」を前提としているのである。かりに「p q」における記号「p」が複合記号を表すものではないとすれば、「p」それだけでは意義をもつことができない。そしてそのとき、「p」と同等な「p p」や「p . p」といった記号もまた意義をもつことができない。しかし、「p p」が意義をもたないならば、「p q」もまた意義をもつことができない。
  5.5151
否定命題の記号は、必ず肯定命題の記号を用いて構成されなければならないのだろうか。なぜ否定的事実によって否定命題を表現することができないのか。(たとえば、「a」が「b」に対してある関係にないとき、それは aRb が成立していないことを表現している、のように。)
しかしここでもまた、否定命題は間接的に肯定命題により構成されている。
肯定命題は否定命題の存在を前提としなければならない、そして逆もまたなりたつ。
+ 5.52
すべての x の値に対する関数 fx の値の全体を ξ の値とすると、そのとき N(ξ) = ~(∃x) . fx となる。
  5.521
私はすべてという概念を真理関数から切り離す。
フレーゲとラッセルは一般性を論理積や論理和と関連づけて導入した。そのため、命題「(x) . fx」と「(x) . fx」を一般性と真理関数という二つの概念を含んでいるものと理解し難くなったのである。
  5.522
一般性の表現の特色は、第一に論理的プロトタイプが示されていること、第二に定項をきわだたせていることである。
  5.523
一般性の標識は入力項として現れる。
  5.524
対象が与えられるとき、同時にすべての対象が与えられる。
要素命題が与えられるとき、同時にすべての要素命題が与えられる。
  5.525
命題「(x ) . fx」を--ラッセルがしたように--「fx可能である」という言葉に言い換えることは、正しくない。
ある状況の確実性、可能性、あるいは不可能性は、命題によって表されることではなく、ある表現がトートロジーであるか、有意義な命題であるか、あるいは矛盾であるかと言うことによって表される。
ひとは先立つものによって説明しようとするが、しかし、それはシンボル自身のなかにすでにあるのでなければならない。
+ 5.526
完全に一般化された命題によって、完全に世界を記述することができる。すなわち、前もって特定の対象になんらかの名を対応させることなく、世界を記述することができる。
そこから通常の表現方法にいたるには「...であるような x が一つ、そしてただ一つ存在する」という表現のあとに、「そしてこの xa である」と言うだけでよい。
  5.5261
完全に一般化された命題もまた、あらゆる他の命題と同様に、合成されている。(このことは、われわれが「(x, ϕ) . ϕx」において「ϕ」と「x」別々に言及しなければならないことに示されている。両者は、一般化されていない命題の場合と同様、それぞれ独立に世界に対して指示関係にある。)
合成されたシンボルの特徴、それは他のシンボルと何かを共有していることである。
  5.5262
いかなる命題であれ、それが真であるか偽であるかによって、世界の一般構造のどこかを変化させる。そして、要素命題の全体が世界の構造に許す可能な範囲が、まさに完全に一般的な命題が限界づける可能な範囲である。
(ある要素命題が真であるならば、それによって真である要素命題が、少なくとも一つ増えたことになる。)
+ 5.53
対象の同一性を私は記号の同一性で表し、等号では表さない。対象の違いは記号の違いで表す。
+
  5.5301
同一性が対象間の関係でないことは自明である。このことは、たとえば、「(x) : fx .. x = a」という命題を考えてみれば明らかになる。この命題が語ることは、たんに、a だけが関数 f を満たすということであり、a となんらかの関係を持つものだけが関数 f を満たすということではない。
もちろん、 a だけa に対してこの関係に立ちうると語ることもできるが、しかし、それを表現するためには、まさに等号そのものが必要となる。
  5.5302
ラッセルの「=」の定義は十分ではない。なぜなら、その定義に従うと、二つの対象がすべての性質を共有する、と語ることができなくなるからである。(この命題は、たとえ決して正しくはないとしても、なお意義をもっている。)
  5.5303
大雑把に言えば、二つのものについてそれらが同一であると語ることはナンセンスであり、一つのものについてそれが自分自身と同一であると語ることは何ごとも語っていない。
  5.531
それゆえ私は、「f(a, b) . a = b」とは書かず、「f(a, a)」(あるいは「f(b, b)」)と書く。また、「f(a, b) . ~a = b」とは書かず、「f(a, b)」と書く。
+ 5.532
同様に、「(x, y) . f(x, y) . x = y」とは書かず、「(x ) . f(x, x)」と書く。また、「(x , y) . f(x, y) . ~x = y」とは書かず、「(x, y) . f(x, y)」と書く。
(それゆえラッセルの「(x , y) . f (x, y)」は「(x , y) . f(x, y) .. (x ) . f(x, x)」と書く。)
  5.5321
したがってわれわれは、「(x) : fx x = a」と書く代わりに、たとえば「(x) . fx .. fa : ~(x , y) . fx . fy」と書く。
そして「ただ一つの xf( ) を満足する」という命題は「(x) . fx : ~(x , y) . fx . fy」となる。
  5.533
それゆえ、等号は概念記法の本質的構成要素ではない。
  5.534
いまや、「a = a」、「a = b . b = c . a = c」、「(x) . x = x」、「(x ) . x = a」等々といった擬似命題は、正しい概念記法では書くことさえできないことが分かる。
+ 5.535
かくして、こうした擬似命題と結びついた問題もまた、すべて消滅する。
ラッセルの「無限公理」にまつわるあらゆる問題も、この地点で解決される。
無限公理が語ろうとすることを言葉で表現すると、異なる意味をもつ無限に多くの名が存在する、となるだろう。
  5.5351
確かに、「a = a」や「p p」といった形式の表現を使いたくなる場面もある。実際、プロトタイプについて、すなわち命題、もの、等々について論じようとする場合である。たとえば、ラッセルは「数学の諸原理」において「p は命題である」というナンセンスを「p p」と記号化し、これを前提として命題の前に置くことによって、その項の位置をただ命題だけが占めることができるとしたのであった。
(ある命題の前に p p という前提を置くことによって、その命題に正しい形式の項を保証しようとすることは、以下の理由からしてすでにナンセンスである。なぜならば、項として命題でないものを p に代入した場合、前提 p p は偽ではなく、ナンセンスとなる。またその前提によって保護しようとしている命題自身も、正しくない種類の項を代入されたならばナンセンスになる。それゆえ、正しくない項を代入させないようにするという点では、保護されるべき命題と保護するために付加された無意味な前提とは、まったく一蓮托生なのである。)
  5.5352
同様に、「ものが存在しない」ということを「~(x ) . x = x」で表現したくなるかもしれない。しかし、仮にこれが命題であったとしても、それは「ものが存在し」、かつそれが自分自身と同一でない場合にもまた、やはり真となってしまうのではないか。
+ 5.54
一般的命題形式では、命題はただ真理操作の基底としてのみ、他の命題の中に現れる。
  5.541
一見、ある命題は他の命題の中に、これとは別の仕方でも現れるかのように思われる。
とくに、「A は p であると信じている」や「A は p と考える」といった心理に関する命題形式において、そのように思われる。
つまり、表面的には、ここでは命題 p が対象 A とある種の関係を持っているかのように見えるのである。
(そして現代の認識論(ラッセル、ムーア、等々)においても、これらの命題はそのように理解されてきた。)
+ 5.542
しかし、「A は p であると信じている」、「A は p と考える」、「A は p と語る」は、明らかに「"p" は p と語る」という形式になる。すなわちここでは、事実と対象との対応関係ではなく、それら事実に対応する対象間の対応関係を介した、事実相互の対応関係なのである。
  5.5421
このことはまた、今日の皮相な心理学が考えている類の魂--主体、等--など存在しないことを示している。
というのも、合成された魂はもはや魂ではないであろうから。
  5.5422
「A が p と判断する」という命題形式の正しい説明には、ナンセンスを判断することが不可能であることを示さねばならない。(ラッセルの理論はこの条件を満たしていない。)
  5.5423
複合的なものを知覚するとは、その構成要素がお互いにしかじかの関係にあることを知覚することである。
このことはまた、次の図

が二通りの仕方で立方体として見ることができるということ、および類似した現象を、良く説明する。というのも、われわれはまさしく実際に二つの異なる事実を見ているのだからである。
(まず a の角を見つめ、それから b を一瞥すると、a が前に出て見える、逆もできる。)
+ 5.55
いまやわれわれは、要素命題のすべての可能な形式を問う問いに、ア・プリオリに答えねばならない。
要素命題は名からなる。しかし、われわれは異なる意味をもつ名がいくつあるかを示すことができない。それゆえ、要素命題の構成を示すこともできない。
  5.551
われわれの根本原則はこうである。およそ論理によって決定できる問いは、論理によってのみ決定されなければならない。
(そして、もしそのような問いに答えるために、世界を観察しなければならなくなるならば、それはわれわれが根本的に道をまちがえていることを示している。)
+ 5.552
論理を理解するために必要な「経験」は何かがしかじかであるという経験ではなく、何かがあるという経験であるが、しかしそれは経験ではない
論理はすべての経験、何かがこのようにあるというすべての経験に先立ってある。
論理は「いかに」よりも先立ってあるが、「何が」よりも先立つことはない。
  5.5521
そうでないとすれば、どうやってわれわれは論理を適用できるだろうか。こう言ってもよいだろう。仮に世界が存在しないとしても、なお論理があるとするのならば、世界が存在しているとき、どうして論理がありえようか。
  5.553
ラッセルは、さまざまな数のもの(個体)の間に単純な関係が存在すると語った。しかし何個の数のものの間になのか。そして、そのことはどうやって決定されるのか--経験によってか。
(特別扱いされる数など存在しない。)
+ 5.554
特別な形式を挙げたとしても、それはまったく恣意的であるだろう。
  5.5541
たとえば、何かを二七項関係の記号で表さねばならないことになるのかどうか、それはア・プリオリに答えられねばならない。
  5.5542
だがしかし、そもそもそのような問いを立てることは合法的なのだろうか。それが何かに対応しうるのか否かを知らないで、ある記号形式を立てる。そのようなことができるのだろうか。
あることがらが成立しうるためには、何が存在しなければならないのか、と問う。このような問いに意義はあるのだろうか。
  5.555
明らかに、要素命題個々の論理形式を離れて、要素命題の概念がある。
しかし、ある体系に従ってシンボルを構成しうるところでは、論理的に重要なのはその体系であり、ひとつひとつのシンボルではない。
そして、私が新たに考案できる形式が、関心を払はなければならないものでありえようか。むしろ、その形式を考案することを可能にさせたもの、それこそが関心を払わねばならないものである。
+ 5.556
要素命題の形式に階層的秩序はありえない。われわれ自身が構成するもののみを予見しうる。
  5.5561
経験的実在は対象の全体によって限界づけられる。限界はまた要素命題全体において現れる。
階層的秩序は実在から独立であり、また独立でなければならない。
  5.5562
要素命題が存在するはずであることが純粋に論理的な根拠から知られるのであれば、そのことはまた、分析されていない形式で命題を理解している人すべてにも知られるのでなければならない。
  5.5563
実際、日常生活のすべての命題は、そのあるがままで、論理的に完全に秩序づけられている。われわれがここで与えなければならない、あのもっとも単純なものとは、真理の比喩ではなく、欠けるところのない真理そのものである。
(われわれの問題は抽象的なものではない、おそらく、存在する問題の中でもっとも具体的な問題であろう。)
+ 5.557
論理の適用が、いかなる要素命題が存在するかを決定する。
適用のうちにあることを、論理が先取りすることはできない。
明らかに、論理はその適用と齟齬をきたしてはならない。
しかし、論理はその適用に密着していなければならない。
それゆえ、論理とその適用とはお互いに侵害しあってはならない。
  5.5571
ア・プリオリに要素命題を挙げることができないのであれば、要素命題を列挙しようとする試みの行き着く先は明白なナンセンスでしかない。
+ 5.6
私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する。
  5.61
論理が世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。
それゆえに、論理の内側で「世界にはこれらは存在するが、あれは存在しない」と語ることはできない。
そう語ることは、明らかにある種の可能性の排除を前提としているが、しかし、それは事実ではありえない。なぜなら、事実であるとすれば、論理は世界の限界を超えなければならない。すなわち、世界の限界を超えることによってのみ、論理は世界の限界を外側からも見ることができるのだから。
思考できないことを思考することはできない。思考できないことを語ることもできない。
+ 5.62
以上の見解が、独我論はどの程度まで正しいかという問いの鍵となる。
すなわち、独我論の言わんとするところはまったく正しい。ただ、それは語ることができず、自らを示すだけである。
世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一のこの言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。
  5.621
世界と生は一つである。
+ 5.63
私は私の世界である。(ミクロコスモス。)
  5.631
思考し表象する主体は存在しない。
「私が見出した世界」という書物を私が書くとすれば、その書物の中で私の身体についても報告がなされ、また、どの部分が私の意思に従い、どの部分が従わないか等も語られなければならないだろう。これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりもむしろある重要な意味において主体が存在しないことを示す方法なのである。すなわち、この書物の中で論じることのできない唯一のもの、それが主体なのである。
  5.632
主体は世界に属さない。主体は世界の限界である。
+ 5.633
世界の中のどこに形而上学的主体が認められるのか。
あなたは、これは眼と視野の関係と同じ事情だと言う。しかし、現実には、あなたは眼を見ることはない
そして、視野におけるいかなるものも、それが眼によって見られていると推論できるものはない。
  5.6331
すなわち、視野は決してこのような形をしているのではない。
眼 —
  5.634
このことは、われわれの経験のいかなる部分もア・プリオリではないということと結びついている。
われわれが見るすべては、また別のようでもありえた。
われわれが記述できるすべては、また別のようでもありえた。
ものにはア・プリオリな秩序は存在しないのである。
+ 5.64
ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論に一致することが見てとれる。独我論の自我は広がりを欠いた点に収縮し、自我に対応していた実在だけが残される。
  5.641
それゆえ、哲学において非心理学的自我を論じうることには確かに意義がある。
自我が哲学に現れるのは「世界は私の世界である」という事実によっている。
哲学的自我とは人間ではなく、人間の身体でも、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的主体であり、世界の部分ではなく、世界の限界である。
+ 6
真理関数の一般形式は [ p*, ξ, N(ξ)* ]*である。
これは命題の一般的形式である。
+   
+
  6.001
このことは、すべての命題は要素命題に操作 N(ξ) を繰り返し適用した結果である、ということにほかならない。
  6.002
命題を構成する方法の一般形式が与えられているところでは、それとともに、操作によって命題を他の命題から作り出す方法の一般形式もまた、必ず与えられている。
  6.01
それゆえ*操作 Ω'(η) の一般形式は [ξN(ξ)]'(η) ( = [η, ξ, N(ξ)] ) である。
これは、ある命題から他命題への移行のもっとも一般的な形式である。
+ 6.02
このようにして、われわれは数に至る。次のように定義する。
    x = Ω0'x
    Ω'Ων'x = Ων+1'x
この規則に従い、
   x, Ω'x, Ω'Ω'x, Ω'Ω'Ω'x, ・・・
という系列を、次のように書く。
   Ω0'x, Ω0+1'x, Ω0+1+1'x, Ω0+1+1+1'x, ・・・
それゆえ私は、 [ x, ξ, Ω'ξ ] の代わりに、 次のように書く。
   「 [ Ω0'x, Ων'x, Ων+1'x ]
そして、次のように定義する。
    0 + 1 = 1
    0 + 1 + 1 = 2
    0 + 1 + 1 + 1 = 3
     (以下同様)
  6.021
数は操作の冪である。
  6.022
数の概念は、すべての数に共通するもの、すなわち数の一般形式にほかならない。
数の概念は可変な数のことである。
そして数が等しいという概念は、あらゆる特殊な場合での数が等しいことの一般形式である。
+ 6.03
整数の一般形式は [ 0, ξ, ξ+1 ] である。
  6.031
集合論は数学ではまったく余計な代物である。
このことは、数学において要求される一般性が偶発的なものではないことと結びついている。
+ 6.1
論理学の命題はトートロジーである。
+ 6.11
それゆえ、論理学の命題は何も語らない。(それは分析命題である。)
  6.111
論理学の命題に実質があると思わせるような理論はすべて誤りである。たとえば「真」「偽」という語が他の性質と並ぶ二つの性質を表していると考えるかもしれない、そうすると、すべての命題が真・偽いずれかの性質をもつということが奇妙な事実と思えるだろう。こうなると、この理論においては、たとえば「すべてのバラは黄色か赤のいずれかである」という命題が、仮に真であったとしても、けっして自明ではないのと同様に、命題が真・偽いずれかであることが自明なことではないと見えてしまう。こうして、論理学の命題はいまや完全に自然科学の命題の性格を得てしまう。これは論理学の命題が誤って理解されていることの確かな徴である。
  6.112
論理命題に対する正しい説明は、すべての命題の中で論理命題に独自の位置を与えるものでなければならない。
  6.113
論理命題のきわだった特徴は、命題が真であることをシンボルだけで見分けることができる、ということである。そしてこの事実のうちに、論理の哲学のすべてが含まれている。また、論理命題でない命題の真・偽は命題だけでは見分けることができないということも、もっとも重要な事実のひとつである。
+ 6.12
論理学の命題がトートロジーであることは、言語の、すなわち世界の形式的--論理的--特性を示している
命題の構成要素がこの仕方で結合されるとトートロジーになるということ、それがそれら構成要素の論理を特徴づける。
命題を特定の仕方で結合することによってトートロジーを作るには、それらの命題は特定の性質をもっていなければならない。それゆえ、それら命題がこの特定の仕方で結合されるとトートロジーになるということは、それらの命題はそうした構造上の性質をもっていることを示している。
+
  6.1201
たとえば、命題「p」と「~p」を「~(p . ~p)」と結合するとトートロジーを与える。それは「p」と「~p」が互いに矛盾していることを示している。命題「pq」、「p」、「q」を「(pq) . (p) :⊃: (q)」という形式に結合するとトートロジーを与える。それはpp q から q が帰結することを示している。「(x) . fx :⊃: fa」がトートロジーであることは、 (x) . fx から fa が帰結することを示している。等々。
  6.1202
明らかに、同じ目的のためにトートロジーに代えて矛盾を用いることも可能である。
  6.1203
トートロジーを判別するために、そのトートロジーの中に一般性の表現が含まれない場合には、以下のような直感的方法を利用することができる。「p」「q」「r」等に代えて「」「」「」等と書く。真偽の組み合わせは括弧を用いて表現する、図が例である。


そして、命題全体の真・偽とその真偽項の組み合わせの対応を、次のように線を引いて書き込む。


それゆえ、上図は、たとえば pq という命題を表すことになるだろう。そこで、命題 ~(p . ~p) (矛盾律)を例にとってトートロジーかどうかを調べてみよう。われわれの表記法では「」という形式はこう書かれる。


また、「ξ . η」という形式はこう書かれる。

それゆえ、命題 ~(p . ~q) はこのようになる。

ここで「q」のところに「p」を代入し、一番外側の真・偽と一番内側の真・偽の結びつきを調べてみれば、各項のすべての真・偽の組み合わせに対して、命題全体が真であることが結びついており、偽は結びついていないということが明らかになる。
  6.121
論理学の命題は、いくつかの命題を結合して何も語らぬ命題を作り、それによって、それら命題の論理的性質を実証する。
この方法は零位法と呼ぶことができるだろう。論理命題において諸命題は互いに平衡なものとされ、その平衡状態が、これらの命題が論理的にいかなる特性をもっていなければならないかを示すのである。
+ 6.122
このことから、われわれは論理命題なしでもやっていけることは明らかである。すなわち、適切な表記法を用いれば、ただ命題を綿密に検証するだけで命題の形式的性質を知ることができるからである。
  6.1221
たとえば、二つの命題「p」と「q」が「p q」の形に結合されてトートロジーを与えるとすれば、そのとき qp から帰結するということは明らかである。
たとえば、「q」が「p q . p」から帰結することを、われわれはこれら二つの命題そのものから見てとる。しかし、同じことを次のやり方で示すこともできる。それら二つの命題を「p q . p :⊃: q」の形に結合し、そしてそれがトートロジーであることを示すやり方である。
  6.1222
このことは、なぜ論理命題は経験によって確証することができないのか、またなぜ経験によって反駁することができないのか、という疑問に光を投げかける。論理学の命題はいかなる経験によっても反駁されることがあってはならないだけでなく、また経験によって確証されることがあってもならないのである。
  6.1223
しばしば、「論理的真理」があたかもわれわれの「要請した」もののように感じられてきたが、いまやその理由は明らかである。すなわち、適切な表記法を要請することができるという限りにおいて、われわれは論理的真理を要請することができるのである。
  6.1224
論理学が形式についての学と称され、推論についての学と称された理由もまた、ここにおいて明らかである。
+ 6.123
明らかに、論理法則それ自身が再び論理法則の対象となることがあってはならない。
(ラッセルの考えとは異なり、「タイプ」ごとにそれぞれ固有の矛盾律があるわけではない。自分自身に適用することはないのだから、ただ一つの矛盾律があれば十分である。)
  6.1231
論理命題の印は一般妥当性ではない。
一般的であるとは、偶然すべてのものにあてはまるというにすぎない。実際、一般化された命題だけでなく、一般化されていない命題もまた、まったく同様にトートロジーになりうる。
  6.1232
たとえば「すべての人間は死を免れない」といった命題の一般妥当性を偶然的と言うとすれば、論理的な一般妥当性は本質的と言えるだろう。ラッセルの「還元公理」のような命題は、論理命題ではない。そして、このことは「仮に真だとしても、たまたまうまくいったからにすぎないのではないのか」というわれわれの印象を説明する。
  6.1233
還元公理の妥当しない世界を考えることができる。しかし、われわれの世界が現実にそのような世界であるのかどうかという問いに、論理が一切関わりをもたないのは明らかである。
  6.124
論理命題は世界の足場を記述する。というよりもむしろ、それを提示する。論理命題は何も「扱」はない。名が意味をもち、要素命題が意義をもつことは、前提とされている。そしてこれこそ、論理命題の世界への結びつきなのである。シンボルを--しかるべき特性を本質にもつシンボルを--あるやり方で結合するとトートロジーであるということは、たしかに世界について何ごとかを示しているに違いない。ここに決定的要点がある。われわれが使用するシンボルには恣意的な側面があり、また恣意的でない側面もあると、われわれは語ってきた。論理においては、この恣意的でない側面だけが表現を行う。すなわち論理の場面では、けっして、われわれの表したいことを記号によってわれわれが表現するのではなく、必然的な記号の本質それ自身が、自ら語るのである。言い換えると、なんであれある記号言語の論理的構文を知るならば、そのときすでに論理学の全命題が与えられているのである。
+ 6.125
論理についての旧来の見解と同様に、「真である」論理命題をあらかじめすべて記述することが可能である。
  6.1251
それゆえ論理では、予期せぬことは決してありえない
+ 6.126
ある命題が論理学の命題であるかどうかは、そのシンボルの論理的性質を計算することによって計算できる。
そして、この計算を、われわれは論理命題を「証明する」ときに行っている。すなわち、意義も意味も考慮せずに、ただ記号規則だけに従ってその論理命題を別の論理命題から構成しているのである。
論理命題の証明とは、最初のトートロジーから次々にトートロジーを作り出すなんらかの操作をくりかえし適用することによって、当の論理命題を別の論理命題から作成することである。(そして、トートロジーから帰結するのはトートロジーだけである。)
もちろん、論理命題がトートロジーであることを示すこうした仕方は、論理学にとってまったく本質的なものでない。なぜなら、証明の出発点となる命題がトートロジーであることを示すには、もはや証明に頼ることはできないのであるから。
  6.1261
論理学においては、過程と結果は等価である。(それゆえ予期せぬことは起きない。)
  6.1262
論理学における証明は、複雑な命題についてそれがトートロジーであることを容易に知るための、機械的な補助手段にすぎない。
  6.1263
有意義な命題を、さらに論理命題をも、他命題から論理的に証明できるとしたら、それは実際あまりも奇妙なことだろう。有意義な命題を論理的に証明することと、論理学における証明とは、二つのまったく異なったものでなければならない、これは初めから明らかなことである。
  6.1264
有意義な命題は何ごとかを語っており、そしてその証明は語っている通りであることを示す。他方、論理学の命題はいずれも証明の形式である。
論理学の命題は、いずれも記号で表された推論図式である。(しかし、推論図式を命題によって表現することはできない。)
  6.1265
論理学では各命題が自分自身に対する証明になっていると解釈することができる。
+ 6.127
論理学の命題はすべてが同じ位置づけである。それらの間に基本法則と派生的命題の本質的区別はない。
すべてのトートロジーはそれがトートロジーであることをみずから示している。
  6.1271
「基本的な論理法則」の数が任意であることは明らかである。というのも、論理学を一つの基本法則から導くことも可能であるからである。たとえば、フレーゲの基本法則をたんにすべて論理積で結びつけてしまうことでも可能であるだろう。(あるいはフレーゲは、それはもはや直接的に自明ではない、と言うかもしれない。しかし、フレーゲほど厳格に考える人が、論理命題の基準として自明性の度合いに訴えたことは不思議なことである。)
  6.13
論理学は理論ではなく、世界の鏡像である。
論理学は超越論的である。
+ 6.2
数学は論理的手法である。
数学の命題は等式であり、それゆえに擬似命題である。
+ 6.21
数学の命題は思考を表現しない。
  6.211
実際、実生活においてわれわれが必要とするのは決して数学の命題ではない。われわれは、数学に属さない命題から同じく数学に属さない命題を導くためにのみ、数学の命題を使用するのである。
(哲学において、「そもそも何のために、その語、その命題を使用するのか」という問いはつねに有益な洞察を導く。)
  6.22
論理学の命題がトートロジーで示す世界の論理を、数学は等式で示す。
+ 6.23
二つの表現が等号で結ばれるとき、それらは互いに置換可能であることを意味している。だが、実際に置換可能であるかは、それら二つの表現それ自身において明らかにされねばならない。
互いに置換可能であることが、それら二つの表現の論理形式を特徴づけている。
  6.231
二重否定と解釈できること、これが肯定の性質である。
( 1 + 1 ) + ( 1 + 1 )」と解釈できること、これが「1 + 1 + 1 + 1」の性質である。
+ 6.232
フレーゲはこのような二つの表現は同じ意味をもつが、その意義は異なると言う。
しかし、等号で結ばれた二つの表現が同じ意味をもつことは、その二つの表現それ自身から見てとれるのであるから、等式は不要なのである。ここに等式の本質がある。
  6.2321
そして数学の命題が証明できるということは、数学命題は正しさを洞察することができるということに他ならない。命題が表すことと事実とを比較してその正しさを確かめる必要はない。
  6.2322
二つの表現の意味が同一であると主張することはできない。なぜなら、その二つの意味について何ごとかを主張することができるためにはその意味を知っていなければならず、そしてそれらの意味を知っているのであれば、それらが同じものを意味しているのかどうかもすでに知っているのだから。
  6.2323
等式は、二つの表現を検討する観点を示すにすぎない。すなわち、意味の同一性という観点から検討する、というわけである。
+ 6.233
数学の問題を解決するのに直感は必要か、この問いには、言語こそがここで必要とされる直感を与えると答えなければならない。
  6.2331
計算という過程がまさにこの直感をもたらす。
計算は実験ではない。
+ 6.234
数学は論理の方法である。
  6.2341
数学的方法の本質は、等式を用いて行われる点にある。すべての数学命題が自明であらねばならないということは、この方法にもとづいている。
+ 6.24
等式にいたる数学の方法は、代入という方法である。
等式は二つの表現の置換可能性を示している、そして等式に従い、ある表現を別の表現へと置き換えることによって、いくつかの等式から新たな等式へと進んで行くのである。
  6.241
そこで 2 x 2 = 4 という命題の証明は以下の通り、
 ν)μ'x = Ων x μ'x
Ω2x2'x = (Ω2)2'x = (Ω2)1+1'x = Ω22'x
    = Ω1+11+1'x = (Ω'Ω)'(Ω'Ω)'x
    = Ω'Ω'Ω'Ω'x = Ω1+1+1+1'x = Ω4'x
+ 6.3
論理の探求とは、すべての法則性の探索を意味する。そして論理の外では、すべてが偶然である。
  6.31
いわゆる帰納法は論理法則ではありえない、なぜならばそれはあきらかに有意義な命題であるから。それゆえにまた、ア・プリオリな法則でもありえない。
+ 6.32
因果律とは法則ではなく、法則の形式である。
+ 6.321
「因果率」は総称である。たとえば力学にはいくつもの最小法則--最小作用の法則、等--があるように、物理学においてはいくつもの因果律、すなわち因果形式の法則が存在する。
  6.3211
実際、なんらかの「最小作用の法則」があるに違いないと、それが精確にはどのようなものであるかを知る前から予感していたのである。(ここでも、いつものことながら、ア・プリオリに確実なものは純粋に論理的なものである。)
  6.33
われわれは保存則をア・プリオリに信じるのではない。一つの論理形式の可能性をア・プリオリに知るのである。
+ 6.34
理由律、自然の連続原理、自然の最小消費の原理、等々、これらすべての命題は、科学の命題に与えることの可能な形式をア・プリオリに洞察したものである。
  6.341
たとえば、ニュートン力学は世界記述を統一的形式へと導く。不規則な黒い模様のある白い平面を思い浮かべてみよう。さて、この平面を十分に細かい正方形の網目で覆い、網の目ごとに白いか黒いかを語ることによって、どのような図形であろうと、常に任意の精確さでそれを記述することができる。このやり方で、その平面の記述を統一的形式に導いたことになるだろう。この形式は恣意的である。なぜなら三角あるいは六角の網目でも同じ成果を得ることができるのだから。三角の方がより単純な記述を与えるということも起こりうるだろう。すなわち、より粗い三角の目の方が、より細かい正方形の目よりも、よりいっそう精確な記述が可能となる(あるいはその逆)、等々。異なる網の目に異なる世界記述の体系が対応している。力学は、すべての世界記述命題が、与えられたやり方で、与えられたいくつかの命題--力学の公理--から導かれなければならないと主張し、そう主張することによって、世界記述の形式を定めている。このようにして、力学は科学という大建造物を構築するための資材を提供する。そしてこう言うのである。どのような建造物を建てるとしても、これらの材料で、しかもこれだけで、なんとか建てなければならない。
(数体系によって任意の数を書き出すことができるように、力学体系によって任意の物理学の命題が書き出せなければならない。)
  6.342
そして、いまや論理学と力学の相対的位置関係が見えてくる。(さきほどの網は、たとえば三角や六角といった一種類以上の形の目からなっていてもよいだろう。)所定の形式をもった一つの網によって、先に述べたような図形を記述できるということ、それは当の図形については何も語らない。(なぜなら、この種のどんな図形に対しても同じことが言えるのだから。)しかし、特定の細かさをもった特定の網の目によって完全に記述できるとすれば、そのことはその図形を特徴づける。
同様に、ニュートン力学によって世界が記述できるということは、世界についてなにごとも語っていない。しかし、ニュートン力学によって世界が事実そうあるとおりに記述できるということ、このことは世界について何ごとかを語っている。あるいは、ある力学が他の力学よりも世界をより単純に記述できるという事実もまた、世界について何ごとかを語っている。
+ 6.343
力学とは、世界記述に必要な真である命題すべてを、一つの計画に従って構築しようとする試みである。
  6.3431
物理法則もまた、その論理的な仕組み全体を通して、間接的に、やはり世界の対象について語っている。
  6.3432
力学による世界記述はつねに完全に一般的なものであることを忘れてはならない。力学においては、たとえば、けっして特定の質点についてではなく、つねになんらかの質点についてのみ論じられる。
  6.35
たとえわれわれの図の模様*が幾何学図形であるとしても、言うまでも無く、幾何学はその図形が実際にどう言う形でどこに位置するかについて何も語らない。しかし、網は純粋に幾何学的であり、その性質はすべてア・プリオリに与えられうる。
理由律等の法則は網に関するものであり、網が記述するものには関わらない。
+ 6.36
かりに因果律が存在するとすれば、それは「自然法則が存在する」となるだろう。
しかしむろんそう語ることはできない。それは自らを示すだけである。
+ 6.361
ヘルツに倣って、合法則的な連関のみが思考可能であると語ることもできるだろう。
+ 6.3611
いかなるできごとの経過も「時の経過」--そのようなものは存在しない--と比較することはできない。ただ他のできごとの経過(たとえばクロノメーターの動き)と比較することができるだけである。
それゆえ時間的な過程の記述は、他のできごとの経過を拠りどころにすることによってのみ可能となる。
空間についてもまったく同じように言える。たとえば、二つのできごと(相互に排除し合う)について、「そのどちらも生じえない、なぜならそのどちらかを生じさせるいかなる原因もないからだ」と言うとすれば、その時実際に問題となっているのは、「二つのできごとの間になんら非対称性がない場合には、その二つのうちの一方を記述することは不可能」ということにほかならない。そして、そのような非対称性が存在する場合には、その相違点を、一方が起き他方が起きなかった原因として理解することができるのである。
  6.36111
右手と左手を重ね合わすことができないというカントの問題は、すでに、平面においても、また一次元空間でも成り立つ。一次空間で二つの合同な図形 ab は、
– – – ○———— – – ————○ – – –
a                           b
この空間の外に出さないかぎり、重ね合わすことができない。実際に右手と左手とはまったく合同なのである。つまり、両者を重ね合わせられないことは、それらが合同であることとは無関係なのである。
もし、四次元空間において手袋を回転させることができるならば、そのとき、右の手袋を左手にはめることができるだろう。
  6.362
記述できることは起こりうることでもある。そして因果律が排除するものは記述できない。
+ 6.363
帰納法の手順とは、われわれの経験と調和するもっとも単純な法則を法則と仮定する手順である。
+ 6.3631
しかしこの手順は論理的正当性をもたず、たんに心理的に正当化されるにすぎない。
明らかに、もっとも単純なできごとが実際にも成立するだろうという信念には、まったく根拠がない。
  6.36311
明日も太陽は昇るだろう、とは仮説である。つまり、われわれは太陽が明日昇るか知っているわけではない。
+ 6.37
あるできごとが起こったために他の出来事が引き起こされるという必然性は存在しない。存在するのはただ、論理的必然性のみである。
  6.371
近代のすべての世界観の根底に、いわゆる自然法則は自然現象の説明であるという幻想が横たわっている。
  6.372
こうして、古代の人々が神と運命の前でそうしたように、人々は自然法則を何か侵すべからざるものとして、その地点で立ち止まる。
そしてむろん、両者とも正しく、また、両者ともまちがっている。しかし、現代の体系ではあたかもすべてが説明済であるかのように思われているのに対し、古代の人々はそこにはっきりとした限界を認めていた。その分、古代の人々の方がより明晰であった。
  6.373
世界は私の意志から独立している。
  6.374
たとえ欲したことすべてが起こったとしても、いわばたんなる僥倖にすぎない。なぜならば、それを保証するいかなる論理的連関も意志と世界の間には存在しないのだから、そして意志と世界の間になんらかの物理的連関を想定したとしても、その物理的連関それ自身を意思することはできないのだから。
+ 6.375
論理的必然性のみが存在するように、論理的不可能性のみが存在する。
  6.3751
たとえば二つの色が同時に視野の同じ場所を占めることは不可能、それも論理的に不可能であるが、それは色の論理的構造によって排除されているからである。
この両立不可能性が物理学でどう現れるか考えてみよう。一つの粒子は同時に二つの速度を持つことはできない。すなわち、一つの粒子は同時に二つの位置にはありえない。すなわち、一つの時点に異なる位置にある粒子は同一ではありえない。おおむねこのように言えるだろう。
(明らかに、二つの要素命題の論理積は、トートロジーでも矛盾でもありえない。他方、視野の一点が同時に二つの異なる色をもつという命題は矛盾である。)
+ 6.4
すべての命題は等価である。
  6.41
世界の意義は世界の外にあるのでなければならない。世界の中では、すべてはあるようにあり、すべては起きるように起きる。その中に価値は存在しない。--仮にあったとしても、それは価値ある価値ではないであろう。
価値ある価値があるとすれば、それは、起きるもの、あるようにあるものすべての外になければならない。起きるもの、あるようにあるものすべては偶然であるから。
それを偶然でないものとするものは、世界の中にはありえない。なぜなら、世界の中にあるとすれば、これもまた偶然となるであろうから。
それは世界の外にあるのでなければならない。
+ 6.42
それゆえ倫理学の命題も存在しえない。
命題はより高きことを何ひとつ表現することができない。
  6.421
明らかに、倫理を言葉で言い表すことはできない。
倫理は超越論的である。
(倫理と美はひとつである。)
  6.422
「汝・・・すべし」という形の倫理法則が立てられるとき、まず思い浮かぶのは「ではそうしなければどうなるのか」という問である。しかし、倫理は明らかに通常の意味での賞罰とは関係しない。それゆえ、行為の帰結を問うことは当を得ていない。行為の帰結を求めるとすれば、少なくとも、それはできごとであってはならない。というのも、先の問いは何がしか正しいはずだからである。確かに、ある種の倫理的賞罰は存在するにちがいないが、しかしそれは当の行為それ自身のうちにあるのでなければならない。
(そしてまた、賞が好ましいものであり、罰が好ましくないものでなければならないことも、明らかである。)
  6.423
倫理の主体としての意思については語ることができない。
そして、現象としての意志は心理学の興味を引くにすぎない。
+ 6.43
善き、あるいは悪しき意志が世界を変えるのであれば、変えることができるのはただ世界の限界であり、事実ではない。すなわち、言語で表現できるものを変化させることはできない。
ひとことで言えば、結果としての世界は全体として別の世界へと変化するのでなければならない。いわば、世界全体が増大したり縮小したりするのでなければならない。
幸福な人の世界は不幸な人の世界とはまったく別の世界である。
+ 6.431
同様に、死によっても世界は変わらない、死によって世界は終わるのである。
  6.4311
死は人生のできごとではない。死は体験されない。
永遠を終わりの無い時間的持続としてではなく、無時間と解するならば、現在に生きる者は永遠に生きている。
われわれの視野に限りがないように、われわれの生にも終わりがない。
  6.4312
人間の魂の時間的な不死性、つまり魂が死後も生き続けること、それはいかなる仕方でも保証されていない。それだけでなく、たとえそれが保証されたとしても、その想定は期待する役割をまったく果たさないのである。いったい、私が永遠に生き続けたとして、それで謎が解けるのだろうか。その永遠の生もまた、現在の生と変わらず不可解なものではないのか。時間と空間のうちにある生の謎の解決は、時間と空間のにある。
(解かれるべき謎は自然科学の問題ではない。)
+ 6.432
世界がいかにあるかは、より高きものには完全にどうでもよいことである。神は世界のうちには姿を現さない。
  6.4321
事実はただ問題を導く、解決を導くことはない。
  6.44
神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるということである。
  6.45
永遠の相のもとに世界を観るとは、世界を全体として--限界づけられた全体として--観ることである。
限界づけられた全体として世界を感じること、これが神秘的感情である。
+ 6.5
言い表わせない答えに対しては、問いもまた言い表わすことができない。
は存在しない。
問いが立てられるのならば、答えを与えることもまた可能である
  6.51
問うことのできないところで疑おうと試みるがゆえに、懐疑論は反論不可能なのではなく、あきらかにナンセンスなのである。
問いが成り立つところでのみ、疑いも成り立ち、答えが成り立つところでのみ、問いが成り立つ。そして答えが成り立つのは、ただ、何ごとかを語ることができるところでしかない。
+ 6.52
たとえ、科学で可能なすべての問いが答えられたとしても、生の問題はまったく手つかずのまま残されるだろうと、われわれは感じるのである。もちろん、その時もはや問うべき何ごとも残されていない。そしてまさにそれが答えなのである。
  6.521
生の問題の解決は、問題の消滅によって気づかれる。
(長い懐疑ののち、生の意義が明らかになった人々が、それでもなおその意義がどこにあるか語ることができない、その理由はまさにここにあるのではないか。)
  6.522
もちろん言い表わせないものが存在する。それは自らを示す。それは神秘である。
  6.53
語りうること、すなわち自然科学の命題--すなわち哲学とはなんの関係も無いこと--以外は何も語らぬこと。そして誰かがなにか形而上学的なことを語ろうとした時、そのたびに、あなたはあなたの命題のこの記号にいかなる意義も与えていないと指摘する。これが、本来の正しい哲学の方法である。この方法はその人を満足させないだろう。--彼は哲学を教えられている気がしないだろう。--しかし、これこそが、唯一厳密に正しい方法なのである。
  6.54
私を理解するひとは、私の命題をよじ登り--その上に立ち--それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。このようにして私の命題は解明的である。(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ捨てねばならない。)
私の命題を超えねばならない。その時世界を正しく見るだろう。
  7
語りえぬことについては,沈黙するしかない。